のを見たりとて面白くもなし湊川《みなとがわ》へ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の魎魅《りょうみ》も影をかくして軒を並ぶる小亭|閑《かん》として人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけて憩《いこ》えば晴嵐《せいらん》梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に嗚呼《ああ》忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸《あくび》に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草《たばこ》の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし印半天《しるしばんてん》の煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わず噴き出す。この男バナナと隠元豆《いんげんまめ》を入れたる提籠《さげかご》を携えたるが領《えり》しるしの水雷亭[#「水雷亭」に傍点]とは珍しきと見ておればやがてベンチの隅に倒れてねてしまいける。富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。
 こゝへ新《あらた》に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立《おんいでたち》。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇《ひさし》よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬《そうきょう》に薄紅さして面《おも》はゆげなり。人々の視線一度に此方《こなた》へ向かえば新郎のパナマ帽もうつむきける。この二人|間《ま》もなく大阪行のにて去る。引きちがえて入り来る西洋人のたけ低く顔のたけも著しく短きが赤き顔にこればかり立派なる鬚《ひげ》ひねりながら煙草を人力《じんりき》に買わせて向側のプラットフォームに腰をかけ煙草取り出して鬚をかい上ぐるなどあまり上等社会にもあらざるべし。これと同じ白衣着けたる連れの男は顔長く頬髯《ほおひげ》見事なれど歩み方の変なるは義足なるべし。この間改札口幾度か開かれまた閉じられて汽笛の止む間もなし。人来り人去っていつまでも待合の隅に居残るは吾等のみなるぞつまらなき。ようやく十二時となりて、プラットフォームに出でんとすればこの次のなりとてつきかえされし、重ね/\の失敗なりける。ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田を距《へだ》てて白砂青松の中に白堊の高楼|蜑《あま》の塩屋《しおや》に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来る山々|山骨《さんこつ》黄色く現われてまばらなる小松ちびけたり。中に兜《かぶと》の鉢を伏せたらんがごとき山見え隠れするを向いの商人|体《てい》の男に問う。何とか云いしも車の音に消されて判らず。再三問いかえせしも訛《なまり》の耳なれぬ故か終《つい》にわからず。気の毒にもあり可笑しくもあれば終にそのままに止みぬ。後にて聞けば甲山《かぶとやま》と云う由。あたりの山と著しく模様変れるはいずれ別に火山作用にて隆起せるなるべし。これのみは樹木黒く茂りたり。
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蝉なくや小松まばらに山|禿《はげ》たり
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など例の癖そろ/\出で来る。大阪にて海南学校出らしき黒袴《くろばかま》下り、乗客も増したり。幸いに天気あまり暑からざればさまでに苦しからず。山崎を過ぐれば与一兵衛《よいちべえ》の家はと聞けど知る人なし。勘平《かんぺい》らしき男も見えず、ただ隣りの男の眼付やゝ定九郎《さだくろう》らしきばかりなり。五十くらいの田舎女の櫛《くし》取り出して頻《しき》りに髪|梳《くしけず》るをどちらまでと問えば「京まで行くのでがんす。息子が来いと云いますのでなあ」と言葉つき不思議なるを、国はと問えば広島近在のものなる由。飾り気一点なきも樸訥《ぼくとつ》のさま気に入りてさま/″\話しなどするうち京都々々と呼ぶ車掌の声にあわたゞしく下りたるが群集の中にかくれたり。京に入りて息子とかの宿に行くまでの途中いさゝか覚束なく思わるゝは他人のいらぬ心配かは知らず。やがて稲荷《いなり》を過ぐ。伏見人形に思い出す事多く、祭り日の幟《のぼり》立並ぶ景色に松蕈《まつたけ》添えて画きし不折《ふせつ》の筆など胸に浮びぬ。山科《やましな》を過ぎて竹藪ばかりの里に入る。左手の小高き岡の向うに大石|内蔵助《くらのすけ》の住家今に残れる
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