に胸静まり、さきの葡萄酒の酔心。ほっとしていつしか書中の人となりける。ボーイの昼食をすゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざる吾《われ》の渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえ叶《かな》わぬと思われん事の口惜《くちお》しければなり。
 一篇広告の隅々まで読み終りし頃は身体ようやく動揺になれて心地やゝすが/\しくなり、半《なか》ば身を起して窓外を見れば船は今|室戸岬《むろとざき》を廻るなり。百尺岩頭燈台の白堊《はくあ》日にかがやいて漁舟の波のうちに隠見するもの三、四。これに鴎《かもめ》が飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚《とびうお》一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。甲《かん》の浦《うら》沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃《めしびつ》膳具《ぜんぐ》を取り下ろすボーイの声|八《や》ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外《ほか》に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕|忝《かたじけな》しと一碗を傾くればはや厭《いや》になりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声《だみごえ》うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方《あなた》ですかと怪訝顔《けげんがお》なるも気の毒なり。何ぞと言葉を和《やわ》らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子《なし》二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速《さっそく》頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦にせし夕日も消えて甲板を下り来る人多くなり、窮屈さはいっそう甚だしけれど吾一人にもあらねば致し方もなし。隣りに言葉|訛《なま》り奇妙なる二人連れの饒舌《じょうぜつ》もいびきの音に変って、向うのせなあが追分《おいわけ》を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫《くつわむし》の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は鷹城《たかじょう》のほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ/\と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿《あさま》しき事なり。残夢再びさむれば、もう神戸《こうべ》が見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓を覗《のぞ》きたれど月なき空に淡路島《あわじしま》も見え分かず。再びとろ/\として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛の吼《ほ》ゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞《せきばく》と云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と蝙蝠傘《こうもりがさ》とを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は桟橋《さんばし》へ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、宅《うち》へ端書《はがき》したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶を啜《すす》れば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りて茜《あかね》の一抹《いちまつ》と共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に馳《か》けつくれば用捨気《ようしゃげ》もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど忌々《いまいま》しきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒に衡《はか》らす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。楠公《なんこう》へでも行くべしとて出立《いでた》たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に藁帽《わらぼう》飛んでぬかるみを走る事|数間《すうけん》、ようやく追い付きて取止《とりとど》めたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね/\の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。元町《もとまち》を線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠《なんこうし》まで行きたり。亀の遊ぶ
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