蓄音機
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西南戦争《せいなんせんそう》の年

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)忠君愛国|仁義礼智《じんぎれいち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)表面のきめ[#「きめ」に傍点]
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 エジソンの蓄音機の発明が登録されたのは一八七七年でちょうど西南戦争《せいなんせんそう》の年であった。太平洋を隔てて起こったこの二つの出来事にはなんの関係もないようなものの、わが国の文化発達の歴史を西洋のと引き合わせてみる時の一つの目標にはなる。のみならず少なくとも私にはこの偶然の合致が何事かを暗示する象徴のようにも思われる。
 エジソンの最初の蓄音機は、音のために生じた膜の振動を、円筒の上にらせん形に刻んだみぞに張り渡した錫箔《すずはく》の上に印するもので、今から見ればきわめて不完全なものであった。ある母音や子音は明瞭《めいりょう》に出ても、たとえばSの音などはどうしても再現ができなかったそうである。その後にサムナー・テーンターやグラハム・ベルらの研究によって錫箔《すずはく》の代わりに蝋管《ろうかん》を使うようになり、さらにベルリナーの発明などがあって今日のグラモフォーンすなわち平円盤蓄音機ができ、今ではこれが世界のすみずみまで行き渡っている。もしだれか極端に蓄音機のきらいな人があってこの器械の音の聞こえない国を捜して歩くとしたら、その人はきっとにがにがしい幻滅を幾度となく繰り返したあげくにすごすご故郷に帰って来るだろうと思われる。
 蓄音機の改良進歩の歴史もおもしろくない事はないが、私にとっては私自身と蓄音機との交渉の歴史のほうがより多く痛切で忘れ難いものである。
 西南戦争に出征していた父が戦乱平定ののち家に帰ったその年の暮れに私が生まれた。その私が中学校の三年生か四年生の時であったからともかくも蓄音機が発明されてから十六七年後の話である。ある日の朝K市の中学校の掲示場の前におおぜいの生徒が集まって掲示板に現われた意外な告知を読んで若い小さな好奇心を動揺させていた。今度文学士何某という人が蓄音機を携えて来県し、きょう午後講堂でその実験と説明をするから生徒一同集合せよというのであった。これはたしかに単調で重苦しい学校の空気をかき乱して、どこかのすきまから新鮮な風が不時に吹き込んで来たようなものであった。生徒の喜んだことはいうまでもない。おもしろいものが見られ聞かれてその上に午後の課業が休みになるのだから、文学士と蓄音機との調和不調和などを考える暇《いとま》はないくらい喜んだに相違ない。その時歓声をあげた生徒の中に無論私も交じっていた。
 校長の紹介で講壇に立った文学士は堂々たる風采《ふうさい》をしていた。頭はいがぐりであったが、そのかわりに立派な漆黒なあごひげは教頭のそれよりも立派であった。大きな近眼鏡の中からは知恵のありそうな黒い目が光っていた。引きしまった清爽《せいそう》な背広服もすべての先生たちのよりも立派に見えた。
 まず器械の歴史から、その原理構造などを明快に説明した後にいよいよ実験にとりかかった時には異常な緊張が講堂全体に充満していたわけである。いよいよ蝋管《ろうかん》に声を吹き込む段となって、文学士は吹き込みラッパをその美髯《びぜん》の間に見える紅《あか》いくちびるに押し当てて器械の制動機をゆるめた。そうして驚くような大きな声で「ターカイヤーマーカーラアヽ」と歌いだした。
 私はその瞬間に経験した不思議な感じを三十年後の今日でもありありとそのままに呼び返すことができるように思う。その奇妙な感じを完全に分析して説明する事は到底不可能であるが、種々雑多な因子の中にはもちろん緊張の弛緩《しかん》から来る純粋な笑いもあった。そこここに実際クスクス笑いだした不謹慎な人もあったようであった。しかしそれは必ずしも文学士その人に向けられた笑いばかりではおそらくなかったろうと思われる。この講堂建設以来この壇上で発せられた人間の声の中で、これくらい珍しいものはなかったに相違ない。忠君愛国|仁義礼智《じんぎれいち》などと直接なんらの交渉をも持たない「瓜《うり》や茄子《なすび》の花盛り」が高唱され、その終わりにはかの全く無意味でそして最も平民的なはやしのリフレインが朗々と付け加えられたのである。私はその時なんという事なしに矛盾不調和を感ずる一方では、またつめたい薄暗い岩室の中にそよそよと一陣の春風が吹き、一道の日光がさし込んだような心持ちもあった事を自白しなければならない。
 吹き込みが終わった文学士は額の汗を押しぬぐいながらその装置を取りはずして、さらに発声用の振動膜とラッパを取りつけた。器械が動きだすとともに今の歌がそろそろ出て来た。それは妙に押しつぶされたような鼻声ではあったが、ともかくも文学士の特徴ある「ラアヽ」などの抑揚をかなり忠実に再現したので、講堂の中からは自然な感嘆の声とおさえつけた笑声とが一時に沸きあがった。
 この一日の出来事はどういうものか私の中学時代の思い出の中に目立って抜き出た目標の一つになっている。一つにはこの泰西科学の進歩がもたらした驚異の実験が、私の子供の時から芽を出しかけていた科学一般に対する愛着の心に強い衝動を与えたためであろうが、そのほかにまだ何かしらある啓示を与えたものがあるためではないかと思っている。私は今でも事にふれてこの文学士の「高い山から」を思い出す。あの時にあの罪のない俚謡《りよう》から流れ出た自由な明るい心持ちは三十年後の今日まで消えずに残っていて、行きづまりがちな私の心に有益な転機を与え、しゃちこ張りたがる気分にゆとりを与える。これはおそらく私の長い学校生活の間に受けた最もありがたい教えの中の一つではなかったかと思う。業に疲れ生に倦《う》んだ時に私はいろいろの形式でいろいろの「高い山」を歌う。そうして新しい勇気と希望を呼び返すのである。
 私にはかなり重大な、しかし他人にはおそらくくだらなく些細《ささい》なこの経験を世の教育家たちにささげて何かの参考にしてもらいたいと思っている。
 エジソンの発明から十数年の後に、初めて東洋の田舎《いなか》の小都会に最新の驚異として迎えられた蓄音機も、いつとはなしに田舎でもあまり珍しいものではなくなってしまった。日曜ごとにK市の本町通りで開かれる市にいつもきまって出現した、おもちゃや駄菓子《だがし》を並べた露店、むしろの上に鶏卵や牡丹餅《ぼたもち》や虎杖《いたどり》やさとうきび等を並べた農婦の売店などの中に交じって蓄音機屋の店がおのずからな異彩を放っていた。
 器械から出る音のエネルギーがいたずらに空中に飛散して銭を払わない往来の人に聞こえる事のないように、銭を払った花客だけによく聞こえるために幾対かのゴム管で分配されるようになっていた。耳にさした管を両手でおさえて首をたれて熱心に聞いている花客を見おろすようにして、口の内で器械の音曲をささやいている主人は狐《きつね》の毛皮の帽子をかぶったりしていた。彼はともかくも周囲のあらゆる露店の主人に比べては一頭地を抜いた文明の宣伝者ででもあるように思われた。
 私は大道の蓄音機を聞いてみたいという希望をかなり強くもっていたにかかわらず、とうとう一度も聞く事ができなかった。私の知っている範囲の友だちや市民でこの蓄音機の管を耳にはさんでいるのを見かけた事もなかった。聞いているのはほとんど皆|田舎《いなか》の田舎から出て来たらしい最も文明と縁の遠い人たちであった。
 大道で蓄音機を聞くという事がたいして悪い事とは思われない。りんごをかじりながら街頭をあるくよりも、環視の中でメリーゴーラウンドに乗るよりもむしろいい事かもしれないのに、何かしらそれを引き止める心理作用があって私の勇気を沮喪《そそう》させるのであった。そのためにこの文明の利器に親炙《しんしゃ》する好機会をみすみす取り逃がしつつ、そんなこだわりなしにおもしろそうに聞いている田舎《いなか》の人たちをうらやまなければならなかった。このような「薄志弱行」はいつまでも私の生涯《しょうがい》に付きまとって絶えず私に「損」をさせている。
 大道蓄音機が文化の福音を片田舎に広めた事は疑いもないが、同時にあの耳にはさむ管の端が耳の病気を伝播《でんぱ》させはしなかったかと心配する。今ならばフォルマリンか何かで消毒するだろうが、あのころそういう衛生上の注意が行き届いていたかどうか疑わしい。しかし今日でも文化の輸入|伝播《でんぱ》に付いて来る種々な害毒がかなり激烈で、しかもそれを防ぐ事ができないのであるから、耳の病気ぐらいはやむを得ない事であったかもしれない。
 改良を加えた蝋管蓄音機《ろうかんちくおんき》を聞きそこなった私は、音色の再現がどのくらいまで完全に行ったかを経験する事ができなかった。しかしかなりまで完成に近づいていたには相違ない。種々な楽器の音や特に昔から問題となっている人声母音の組成要素を分析し研究するに適当な材料としてこの蝋管記録が種々に利用された。蝋管に刻まれた微細な凹凸《おうとつ》を巧妙な仕掛けで郭大した曲線を調和分析にかけて組成因子の間の関係を調べたりして声音学上の知識に貢献した事も少なくない。この種の研究は平円盤の発明によって非常な進捗《しんちょく》を遂げた事はいうまでもない。蝋管記録の寿命はせいぜい千回ぐらいであるのに平円盤の原型の寿命はほとんど永久であると言ってもよい。それでたとえば現在のある国語の発音を記録しておいて百年千年万年の後のものと比較してその変遷を調べる事もできるので、実際そういう目的で保存されている記録がウィンナにあると聞いている。
 平円盤によって行なわれた声音学上の実験的研究もたくさんにあって、今でも続いて熱心な学者がこれを追究している。カルソーの母音の中の微妙な変化やテトラッチニの極度の高音やが分析の俎板《まないた》に載せられている。それにもかかわらず母音の組成に関する秘密はまだ完全に明らかにはならない。ヘルムホルツ、ヘルマン以来の論争はまだ解決したとは言われないようである。このような方面にはまだたくさんの探究すべき問題が残っている。ことに日本人にとっては日本語の母音や子音の組成、また特有な音色をもった三味線や尺八の音の特異な因子を研究するのはずいぶん興味のある事に相違ない。私はこの種の研究が早晩日本の学者の手で遂行される事を望んでいる。
 私が初めて平円盤蓄音機に出会ったのは、瀬戸内海《せとないかい》通いの汽船の客室であったように記憶する。その後大学生時代に神戸《こうべ》と郷里との間を往復する汽船の中でいつも粗悪な平円盤レコードの音に悩まされた印象がかなり強く残っている。船にいくじがなくて、胸に込み上げる不快の感覚をわずかにおさえつけて少時の眠りを求めようとしている耳元に、かの劣悪なレコードの発する奇怪な音響と騒がしい旋律とはかなりに迷惑なものの一つである。それが食堂で夜ふけまで長時間続いていた傍若無人の高話がようやく少し静まりかけるころに始まるのが通例であった。波が荒れて動揺のすさまじい時だけはさすがにこの音も聞こえなかったが、そういう時にはまた船よいの苦悩がさらにはなはだしかった。
 汽船会社は無論乗客の無聊《ぶりょう》を慰めるために蓄音機を備えてあるので、また事実上多数の乗客は会社の親切を充分に享楽しているでもあろうが、これがために少数の「除外例」が受ける迷惑も少しは考慮の中に加えてもらいたいと思った事も幾度あったかわからない。
 このような不平を起こすのが間違っているという事は、その後だんだんに少しずつわかって来た。汽船の夜の蓄音機はこのごろどうなったか知らないが、これに代わるべきさらに強烈なものは今の世上にあまりに多い。いつまでもこのような不平を超越しないでいては自分のような弱い神経をもったものは生存そのものが危うくなるであろう。
 汽船の外でも西洋小間物屋の店先や、居酒屋の繩《なわ》のれんの奥か
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