れることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵《ちり》の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少《きんしょう》な時間をさいて心を無垢《むく》な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に呻吟《しんぎん》する不幸な人々の神経を有害に刺激する事なしに無聊《ぶりょう》を慰め精神的の治療に資する事もできはしまいか。こういう種類のレコードこそあらゆるレコードの中で最も無害で有益でそして最も深い内容をもったものではあるまいか。もしそういうものができたら、私はそれをあらゆる階級の人にすすめたい。為政家が一国の政治を考究する時、社会経済学者がその学説を組み立てる時、教育者がその教案を作製する時、忘れずに少時このレコードの音に耳を傾けてもらいたい。あらゆる心と肉の労働者もその労働の余暇にこれらの「自然の音」に親しんでもらいたい。そういう些細《ささい》な事でもその効果は思いのほかに大きいものになる事がありはしまいか。少なくもそれによって今の世の中がもう少し美しい平和なものになりはしまいか。
蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時機が到着する事を望みかつ信ずる。その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう。
もしこの私の空想が到底実現される見込みがないという事にきまれば私は失望する。同時に人類は永遠に幸福の期待を捨てて再びよぎる事なき門をくぐる事になる。
[#地から3字上げ](大正十一年四月、東京朝日新聞)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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