ば、あたかも隣室の音楽を聞いているような心持ちがするので器械の雑音の気になる事がさらによく防がれるだろうと思う。
 もう一つ音楽家にとって不満足であろうと思うのは、たとえ音色がよく再現できていると言ったところで、これをほんとうの楽器に比べればどうしてもいくぶんの差違のある事は免れ難い事である。いろいろな音の相対的の関係はかなりによく行っていても、全体にかぶさっている濁りあるいは曇りのようなものがあってそれが気になるだろうと思われる。しかしこれはたとえば同一の絵を少し暗い室で見るとか、あるいは少し色のついた光の下で見るとよく似た事であって、正常の光で見た時の印象が確実に残っていない人にとってはその区別は全然認識されない。もしそうでなかったら曇り日に見たセザンヌと晴天に見たセザンヌは別物に見えなければならないわけである。同じようなわけで八畳の日本室で聞くヴァイオリンと、広い演奏室で聞く同じひき手の同じヴァイオリンとも別物でなければならない。
 不完全なる蓄音機から本物の音楽を聞き出そうとする人にとってもう一つの助けになるのは人間心理の特徴として知られた補足作用である。自分の文章の校正刷りを見る時に顕著な誤植を平気で読み過ごすと同じような誤謬《ごびゅう》が、不完全なレコードを完全に聞かせるに役立つ場合も可能である。
 畢竟《ひっきょう》蓄音機をきらいなものとするか、おもしろいものとするかは聞く人の心の置き方でずいぶん広い範囲内でどうにもなるものだろうと思う。これは絶対的善美なものの得られない現世であらゆるものの価値判断に関係して当てはまる普遍的方則ではあるまいか。それで私は蓄音機をきらう音楽家のピュリタニズムを尊敬すると同時に蓄音機を愛好する素人《しろうと》を軽視する事はどうしてもできない。
 蓄音機が完成に近づくに従って生ずる新しい利用方面がいろいろに考えられる中にも、従来すでに行なわれているような音楽や演説の保存運搬、外国語の発音の教授などは別として、たとえば学校の講義のあるものを悉皆《しっかい》蓄音機ですませる事はできないかという問題が起こる。
 学校の講義と言ってもいろいろの種類があるが、その内にはただ教師がふところ手をしていて、毎学年全く同じ事を陳述するだけで済むものもある。そういうのは蓄音機でも代用されはしないかという問題が起こる。それからまた黒板に文字や絵をかいたりして説明する必要のある講義でも、もし蓄音機と活動写真との連結が早晩もう少し完成すれば、それで代理をさせれば教師は宅《うち》で寝ているかあるいは研究室で勉強していてもいい事になりはしまいか、それでも結構なようでもあるがまたそうではなさそうでもある。こういう仮想的の問題を考えてみた時にわれわれは教育というものの根本義に触れるように思う。
 私は蓄音機や活動写真器械で置き換え得られるような講義はほんとうの意味の教育的価値のないものだろうと思っている。もし講義の内容が抜け目なく系統的に正確な知識を与えさえすればいいとならば、何も器械の助けを借りるまでもなくその教師の書いた原稿のプリントなり筆記なりを生徒に与えて読ませれば済む場合もあるわけである。甲の講義を乙が述べてもそれでたくさんなわけである。
 しかし多くの人が自らその学校生活の経験を振り返って見た時に、思い出に浮かんで来る数々の旧師から得たほんとうにありがたい貴《たっと》い教えと言ったようなものを拾い出してみれば、それは決して書物や筆記帳に残っている文字や図形のようなものではなくて、到底蓄音機などでは再現する事のできない機微なあるものである事に気がつくだろう。
 これはおそらくだれでも知っている事であろうが、あまりに教育というものを系統的科学的従って機械的な研究の対象とする場合にややもすれば忘られがちな事である。一度これを忘れればすべての教育は蓄音機や活動写真で代用する事ができるようになると同時に、教育の効果はその場限りの知識の商品切手のようなものになる。生徒の生涯《しょうがい》を貫ぬいてその魂を導き引き立てるような貴いありがたい影響はどこにもなくなるだろう。
 十年一日のごとき講義をするといってよく教師を非難する人が往々ある。しかしそれだけの事実では教師の教師たる価値は論ぜられないと思う。講義の内容の外見上の変化が少なくともその講義の中に流れ出る教師の生きた「人」が生徒に働きかけてその学問に対する興味や熱を鼓吹する力が年とともに加わるという場合もあるかもしれない。これに反して年々に新しく書き改め新事実や新学説を追加しても、教師自身が、漸次に後退しつつある場合も考えられない事はない。この二つの場合のどちらが蓄音機のレコードに適するかを一般的概念的に論断するのは困難ではあるまいか。
 蓄音機が完成した暁に望み得ら
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