mer est calme, la mer est calme.(好い凪《なぎ》だ)と云っている。次に何と云ったか忘れたが、とにかく「海が荒れ出した」という意味の言葉を繰返している。その間にも断えず皆が卓の下で次々に品物を渡しているような真似をしている、その人の環のどこかを実際に品物が移動しているのである。船長がいきなり「ノーフラージュ(難船)」と怒鳴ると、移動がぴたりと止まるのである。自分も一度運悪くこの難船にぶつかって何かケルクショーズをしなければならないことになったので、そのケルクショーズの思案に苦しんでいたら隣席の若いドイツ人がドイツ語でこっそり「いちばん年とったダーメに花を捧げたまえ」と教えてくれた。幸いにドイツ語はこの席の誰にも通じなかったのである。そこで私は立って窓枠にのせてあった草花の鉢をもって片隅に始めから黙って坐っていた半白《はんぱく》の老寡婦《ろうかふ》の前に進み、うやうやしくそれを捧げる真似をしたら皆が喜んでブラボーを叫んだり手と拍《たた》いたりした。その時主婦のルコック夫人が甲高《かんだか》い声を張上げて Elle a rougi ! elle a rougi
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