追憶の冬夜
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)行燈《あんどん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西洋|蝋燭《ろうそく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和九年十二月『短歌研究』)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)カアチ/\
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 子供の時分の冬の夜の記憶の中に浮上がって来る数々の物象の中に「行燈《あんどん》」がある。自分の思い出し得られる限りその当時の夜の主なる照明具は石油ランプであった。時たま特別の来客を饗応でもするときに、西洋|蝋燭《ろうそく》がばね仕掛《じかけ》で管の中からせり上がって来る当時ではハイカラな燭台を使うこともあったが、しかし就寝時の有明けにはずっと後までも行燈を使っていた。しかも古風な四角な箱形のもので、下に抽出《ひきだ》しがあって、その中に燈心が入っていたと思う。時には紙を貼り代えたであろうが、記憶に残っているのはいつも煤《すす》けており、それに針や線香でつついたいたずらの痕跡を印したものである。夜中にふと眼がさめると台所の土間《どま》の井戸端で虫の声が恐ろしく高く響いているが、傍には母も父も居ない。戸の外で椶櫚《しゅろ》の葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳母《うば》のように自分の枕元を護っていてくれたものである。
 母が頭から銀の簪《かんざし》をぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが常である。もし自分が今でもこの匂いの実感を持合わさなかったとしたら、江戸時代の文學美術その他のあらゆる江戸文化を正常に認識することは六《むつ》かしいのではないかという気もする。
 石油ランプはまた明治時代の象徴のような気もする。少なくも明治文化の半分はこの照明の下に発達したものであろう。冬の夕まぐれの茶の間の板縁で古新聞を引破ってのホヤ掃除をした経験をもたない現代青年が、明治文学に興味の薄いのは当然かもしれない。ホヤの中にほうっと呼気を吹き込んでおいて棒きれの先に丸めた新聞紙できゅうきゅうと音をさせて拭くのであった。
 その頃では神棚の燈明を点《とも》すのにマッチは汚《けが》れがあるというのでわざわざ燧《ひうち》で火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃やしその焔を燈心に移すのであった。燧の鉄と石の触れあう音、迸《ほとばし》る火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃えつくときの蒼白な焔の色と亜硫酸の臭気、こうした感覚のコムプレッキスには祖先幾百年の夢と詩が結び付いていたような気がする。
 マッチのことは「スリツケ」と云った。「摺り附け木」の略称である。高等小学校の理科の時間にTK先生という先生が坩堝《るつぼ》の底に入れた塩酸カリの粉に赤燐《せきりん》をちょっぴり振りかけたのを鞭《むち》の先でちょっとつつくとぱっと発火するという実験をやって見せてくれたことを思い出す。そのとき先生自身がひどく吃驚《びっくり》した顔を今でもはっきり想い出すことが出来る。
 マッチの軸木を並べてする色々の西洋のトリックを当時の少年雑誌で読んではそれを実演して友達や甥などと冬の夜長を過ごしたものである。
 まだ少年雑誌などというものの存在を知らなかった頃の冬夜の子供遊びにはよく「火渡し」「しりつぎ」をやったものである。日本紙を幅五、六分に引き裂いたのに火鉢の灰を少し包み込んで線香大の棒形に捻《ひね》る。その一端に火をつけて「火渡し」と云って次の人に渡すと、次の人は「しりつぎ」と答えて次へ廻す、それからだんだんに東京でいわゆる「尻取り」をするのであるが、言葉に窮して考えている間に火が消えるとその人は何かしら罰として道化た隠し芸を提供実演しなければならないのである。
 その外に「カアチ/\」という遊びがあった。詳しいことは忘れたが、何でも庄屋《しょうや》になる人と猟師(加八《かはち》という名になっている)になる人の外に、狸や猪や熊や色々の動物になる人を籤引《くじき》きできめる。そこで庄屋になった人が「カアチ/\鉄砲打て」と命ずると、「カアチ(加八)」になった子が「何を打ちましょう」と聞く。そこで庄屋殿が例えば「狸」と仰せられると加八は一同の顔色を注意深く観察して誰が「狸」であるかを観破するために云わば読心術の練習のようなことをする。「狸」でない子がわざとなんだか落着かないような様子をして天井を仰いでみたり鼻をこすってみたりして牽制しようとするなどはきわめて初歩であるので、その裏をかくつもりで「狸」自身がわざとそのような振りをすることもある。これを仮に第二次の作戦とすると、そのもう一つ上の第三次の方策
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