つある事実を証明するのである。在来のいわゆる穏健な異端でない画に対して吾人が不合理を感じないのは、そこに不合理がないという証拠では毛頭ない。ただそこには何らの新しい不合理を示していないというだけである。そしてこれは間接には畢竟《ひっきょう》新しい何物をも包んでいない事を暗示するのである。そうかと思うと一方で立体派や未来派のような舶来の不合理をそのままに鵜呑《うの》みにして有難がって模倣しているような不見識な人の多い中に、このような自分の腹から自然に出た些細《ささい》な不合理はむしろ一服の清涼剤として珍重すべきもののような感がある。
鳥の脚が変な処にくっついている、樹の上で鳥が力学的平衡を保ち得るかは疑問である。樹の幹や枝の弾性は果してその重量に堪え得るや否や覚束ない。あるいは藁苞《わらづと》のような恰好をした白鳥が湿り気のない水に浮んでいたり、睡蓮《すいれん》の茎ともあろうものが蓮《はす》のように無遠慮に長く水上に聳《そび》えている事もある。時には庇《ひさし》ばかりで屋根のない家に唐人のような漱石先生が居る事もある。このような不思議な現象は津田君のある時期の画中には到る処に見出される
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