ように思われるのである。
津田君といえども伝習の羈絆《きはん》を脱却するのは困難である。あるいは支那人や大雅堂蕪村《たいがどうぶそん》やあるいは竹田《ちくでん》のような幻像が絶えず眼前を横行してそれらから強い誘惑を受けているように見える。そしてそれらに対抗して自分の赤裸々の本性を出そうとする際に、従来同君の多く手にかけて来た図案の筆法がややもすれば首を出したくなる。それをも強《し》いて振り落して全く新しい天地を見出そうと勉《つと》めているのである。その努力の効果は決して仇《あだ》でない事は最近の作品が証明している。
津田君が南画に精力を集注し始めた初期の作品を見ると一つの面白い現象を発見する。例えば樹の枝に鳥が止まっている。よく見ると樹の枝は鳥の胴体を貫通していて鳥はあたかも透明な物体であるように出来上がっている。津田君は別にこれに対して何とも不都合を感じていないようである。樹枝を画く時にここへ後から鳥を止まらせる用意としてあらかじめ書き残しをしておくような細工はしないのである。これは一見没常識のように見えるかもしれぬが、そこに津田君の出発点の特徴が最も明白に現われているのである。
前へ
次へ
全26ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング