中村彝氏の追憶
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田中舘《たなかだて》先生

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中村|彝《つね》氏を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十四年六月『木星』)
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 自分が中村|彝《つね》氏を訪問したのはあとにも先にもただ一度である。
 田中舘《たなかだて》先生の肖像を頼む事に関して何かの用向きで、中村|清二《せいじ》先生の御伴をして、谷中《やなか》の奥にその仮寓《かぐう》を尋ねて行った。それは多分初夏の頃であったかと思う。谷中の台地から田端《たばた》の谷へ面した傾斜地の中腹に沿う彎曲《わんきょく》した小路をはいって行って左側に、小さな荒物屋だか、駄菓子屋だかがあって、そこの二階が当時の氏の仮寓になっていた。
 店の向かって右の狭苦しい入口からすぐに二階へ上がるのであったかと思う。こういう家に通有な、急勾配で踏めばギシギシ音のする階段であった。段を上がった処が六畳くらい(?)の部屋で表の窓は往来に面していた。その背後に三畳くらいの小さな部屋があってそこには蚊帳《かや》が吊るして寝床が敷いたままになっていた。裏窓からその蚊帳を通して来る萌黄色《もえぎいろ》の光に包まれたこの小さな部屋の光景が、何故か今でも目について忘れられない。
 どんな用向きでどんな話をしたか、それがどういう風に運んだのであったか、その方の記憶は完全に消えてしまっている。とにかく簡単な用事が即座に片附いたのであったろうと思われる。これに反して用事に関係のない事で当時の印象になって残っている事を少しばかり思い出して書いてみる。
 部屋の一体の感じが極めて荒涼《ドレアリー》であったように記憶する。どうせこういう種類の下宿屋住居で、そうそう愉快な室もないはずであるが、しかし随分思い切って侘《わび》しげな住まいであった。具体的な事は覚えていないが、そんな気持のした事は確かである。
 机と本箱はあった。その外には幾枚かのカンヴァスの枠に張ったのが壁にたてかけてあったのと、それから、何かしら食器類の、それも汚れたのが、そこらにころがっていたかと思うが、それもたしかではない。
 一つ確かに覚えているのは、レンブラント画集の立派なのが他の二、三の画集と並んで本箱に立ててあった事で、これだけが荒涼な室の中に著しい異彩を放っていた。それからもう一つ、描きかけの自画像で八号か十号くらいだったかと思う。一体に青味の勝った暗い絵で、顔が画面一杯に大きくかいてあった。同行の中村先生があとでレンブラント張りだと評された事も覚えている。
 その時までに見た中村氏の絵を頭においていた自分は、話のついでに「ルノアルがお好きですか」と聞いてみた。そうしたら、「ルノアルも好きだが、レンブラントが一番面白いようです」と言われたようであった。
 その日の中村氏は白地の勝った絣《かすり》を着ていたような気がする。穏やかで、パッシイヴで、そしてどこか涼しい感じのする人であった。
 中村氏が田中舘先生の御宅へ、最初のスケッチをしに来られた時には、自分も中村先生と一緒に見に行った。八つ切りくらいのスケッチブックへ鉛筆で簡単なスケッチをしたが、それは普通の意味の似顔としてはあまりよく似てはいなかった。その時自分の感じた事は、その鉛筆画が普通のアカデミックなデッサンとはどこか行き方が違っているという事であった。
 いよいよ本式にカンヴァスに筆を取り始めてからも、二、三度見に行った。そしてその描いている時の様子の真剣なのに驚かされた。下絵を描いている時など、まるで剣術の試合でも見るような感じがあった。だんだん仕上げにかかっては、その微細な観察とデリケートな絵具の使い方に驚かされた。吾々の方で非常に精密な器械の調節でもしているのと似たような際どい細かさがあった。これでは絵をかくのも大変な事であると思われた。いつか道灌山《どうかんやま》へ夏目先生と二人で散歩に行った時、そこの崖の上で下の平野を写生していた素人絵かきがあった。その絵があんまりのんきで、その描き方があんまり気楽なので、思わず二人で笑ってしまった事があるが、同じ油絵をかくのでも、人によってこんなにもちがうものかと思った。
 右の手の方はすらすらと無事に出来たが、計算尺を持った左の手がどうしても思うようにならなくて、これに大分時間をかけたようであった。
 いつであったか、その日の仕事を切り上げて、田中舘先生の門を出て帰っていく中村氏に偶然出逢った事がある。その時の氏の姿が今ありあり思い出される。洋服の上に汚れた白の上っぱりを着たままで、肩から絵具箱をかけ、片手にも画架か何かを持っていた。そして如何にも疲れ切って大儀なから
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