かっぱ》の類)と相撲を取ってのされたという話もある。上記のシバテンはまた夜釣りの人の魚籠《びく》の中味を盗むこともあるので、とにかく天使とはだいぶ格式が違うが、しかし山野の間に人間の形をした非人間がいて、それが人間に相撲をいどむという考えだけは一致している。
自分たちの少年時代にはもう文明の光にけおされてこのシバテンどもは人里から姿を隠してしまっていたが、しかし小学校生徒の仲間にはどこかこのシバテンの風格を備えた自然児の悪太郎はたくさんにいて、校庭や道ばたの草原などでよく相撲をとっていた。そうして着物をほころばせたり向こう脛《ずね》をすりむいては家へ帰ってオナン(おふくろの方言)にしかられていたようである。自分なども一度学校の玄関の土間のたたきに投げ倒されて後頭部を打って危うく脳震盪《のうしんとう》を起こしかけたことがあった。
三
高等小学校時代の同窓に「緋縅《ひおどし》」というあだ名をもった偉大な体躯《たいく》の怪童がいた。今なら「甲状腺」などという異名がつけられるはずのが、当時の田舎力士の大男の名をもらっていたわけである。しかし相撲は上手でなく成績もあまりよくなかったが一つだれにもできぬ不思議な芸をもっていた。それは口を大きくあいて舌を上あごにくっつけておいて舌の下面の両側から唾液を小さな二条の噴水のごとく噴出するという芸当であった。口から外へ十センチメートルほどもこの噴水を飛ばせるのはみごとなものであった。一種のグロテスクな獣性を帯びたこの芸当だけはだれにもまねができなかった。これを噴きかけられるのを恐れて皆逃げ出したものである。
中学時代に相撲が好きで得意であったような友人の大部分は卒業後陸軍へはいったが、それがほとんど残らず日露戦役で戦死してしまって生き残った一人だけが今では中将になっている。海軍へはいった一人は戦死しなかった代わりに酒をのんでけんかをして短剣で人を突いてから辞職して船乗りになり、シンガポールへ行って行くえがわからなくなり、結局なくなったらしい。若くて死んだこれらの仲よしの友だちは永久に記憶の中に若く溌剌として昔ながらの校庭の土俵で今も相撲をとっている。いちばん弱虫で病身でいくじなしであった自分はこの年まで恥をかきかき生き残って恥の上塗りにこんな随筆を書いているのである。
中学の五年のとき、ちょうど日清戦争時分に名古屋に遊びに行って、そこで東京大相撲を見た記憶がある。小錦という大関だか横綱だかの白※[#「析/日」、第3水準1−85−31]《はくせき》の肉体の立派で美しかったことと、朝潮という力士の赤ら顔が妙に気になったことなどが夢のように思い出されるだけである。
高等学校時代には熊本の白川の川原で東京大相撲を見た。常陸山《ひたちやま》、梅ケ谷、大砲などもいたような気がする。同郷の学生たち一同とともに同郷の力士国見山のためにひそかに力こぶを入れて見物したものである。ひいきということがあって始めて相撲見物の興味が高潮するものだということをこの時に始めて悟ったのであった。夜熊本の町を散歩して旅館|研屋《とぎや》支店の前を通ったとき、ふと玄関をのぞき込むと、帳場の前に国見山が立っていて何かしら番頭と話をしていた。そのときのこの若くて眉目秀麗《びもくしゅうれい》な力士の姿態にどこか女らしくなまめかしいところのあるのを発見して驚いたことであった。
四
大学生時代に回向院《えこういん》の相撲を一二度見に行ったようであるがその記憶はもうほとんど消えかかっている。ただ、常陸山、梅ケ谷、大砲、朝潮、逆鉾《さかほこ》とこの五力士のそれぞれの濃厚な独自な個性の対立がいかにも当時の大相撲を多彩なものにしていたことだけは間違いない事実であった。それぞれの特色ある音色をもった楽器の交響楽を思わせるものがあった。皮膚の色までがこの五人それぞれはっきりした特色をもっていたような気がするのである。これとは直接関係のないことであるが、大学などでも明治時代の教授たちには、それぞれに著しくちがったしかもそれぞれに濃厚な特色をもった人が肩を比べていたような気がするが、近ごろではどちらかと言えばだんだん同じような色彩の人ばかりがそろえられるといったような傾向がありはしないかという気がする。これは自分だけのひが目かもしれないが、しかしそうなるべき理由はあると思われる。昔は各藩の流れをくんで多様な地方的色彩を帯びた秀才が選ばれて互いに対立し競争しまた助け合っていた。しかし後にはそうではなくて先任者が順々に後任者を推薦し選定するようになった。従って自然に人員の個性がただ一色に近づいて来るという傾向が生じたのではないかという気がする。どちらがいいか悪いかは別問題であるが、昔の人選法も考えようによってはかえって合理的
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