のである。この二人の主張がそれぞれ正しいとすると、これは問題の現象が半分は客観的すなわち物理的光学的であり半分は主観的すなわち生理的錯覚的なものだという結論になる。この事がらがこの問題を解くに重要なかぎを与えるのである。
私は、数年前、高圧放電の火花に関する実験をしているうちに、次のような生理的光学現象に気づきそれについてほんの少しばかり研究をした結果を理化学研究所|彙報《いほう》に報告したことがある。
長さ数センチメートルの長い火花を写真レンズで郭大した像をすりガラスのスクリーンに映じ、その像を濃青色の濾光板《ろこうばん》を通して、暗黒にならされた目で注視すると、ある場合には光が火花の道に沿うて一方から他方へ流れるように見える。しかし実際はこの火花放電の経過は一秒の百万分一ぐらいの短時間に終了するという事が実験によって確かめられたので、到底肉眼でその火花の生長を認識することは不可能なはずである。それだのにそれが移動するように「見える」というのは、全くわれわれの眼底網膜に固有な生理的効果すなわち一種の錯覚によるものと考えるほかはないのである。そうして、この効果は暗黒にならされた目にあまり強くない光の帯が映ずる場合に特に著しいように思われたのである。
この事実と、前述の二人の見たという火の玉の進行の現象とは何か縁がありそうに思われる。一つの可能性は、上記の浴室の軒の明かり窓の光が一時消えていたのが突然ぱっと一時に明るくなったと仮定すると、その光の帯が暗がりになれていた人の横目には一方から一方に移動する光のように感ぜられたのではないかということである。火花の実験の場合においても、正視するときよりもむしろ少し横目に見るときにこの見かけの移動の感じが著しく、またその移動の方向が目の位置によって逆になるようであった。もっとも、いかなる場合にいかなる方向に動くかという点についてはまだ充分詳しいことを調べたわけではなかったが、ともかくも、実際はほとんど同時に光る光帯が、場合により右から左へ、あるいは左から右へ動くように見えうるという事実がある。これが現在の問題に対して一つの有力な手がかりになるのである。もっとも火花の場合には光帯が現われるとすぐに消えるのに反して現在の場合では点火したきりで消えなかったとすると少し事がらがちがう。それで、後の場合でも同様な錯覚が生ずるかどうか
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