震災日記より
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)子供等と志村《しむら》の家へ行った。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)後|驟雨《しゅうう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年十月)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みし/\
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大正十二年八月二十四日 曇、後|驟雨《しゅうう》
子供等と志村《しむら》の家へ行った。崖下の田圃路《たんぼみち》で南蛮ぎせるという寄生植物を沢山採集した。加藤首相|痼疾《こしつ》急変して薨去《こうきょ》。
八月二十五日 晴
日本橋で散弾二|斤《きん》買う。ランプの台に入れるため。
八月二十六日 曇、夕方雷雨
月蝕《げっしょく》雨で見えず。夕方珍しい電光 Rocket lightning が西から天頂へかけての空に見えた。丁度紙テープを投げるように西から東へ延びて行くのであった。一同で見物する。この歳になるまでこんなお光りは見たことがないと母上が云う。
八月二十七日 晴
志村の家で泊る。珍しい日本晴。旧暦|十六夜《いざよい》の月が赤く森から出る。
八月二十八日 晴、驟雨
朝霧が深く地を這う。草刈。百舌《もず》が来たが鳴かず。夕方の汽車で帰る頃、雷雨の先端が来た。加藤首相葬儀。
八月二十九日 曇、午後雷雨
午前気象台で藤原君の渦や雲の写真を見る。
八月三十日 晴
妻と志村の家へ行きスケッチ板一枚描く。
九月一日 (土曜)
朝はしけ模様で時々暴雨が襲って来た。非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降り出す実に珍しい断続的な降り方であった。雑誌『文化生活』への原稿「石油ランプ」を書き上げた。雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人《おっと》からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠《うら》を下から木槌《きづち》で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向《あおむ》いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。
主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
同じ食卓にいた人々は大抵最初の最大主要動で吾勝ちに立上がって出口の方へ駆出して行ったが、自分等の筋向いにいた中年の夫婦はその時はまだ立たなかった。しかもその夫人がビフテキを食っていたのが、少なくも見たところ平然と肉片を口に運んでいたのがハッキリ印象に残っている。しかし二度目の最大動が来たときは一人残らず出てしまって場内はがらんとしてしまった。油画《あぶらえ》の額はゆがんだり、落ちたりしたのもあったが大抵はちゃんとして懸かっているようであった。これで見ても、そうこの建物の震動は激烈なものでなかったことがわかる。あとで考えてみると、これは建物の自己週期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。震動が衰えてから外の様子を見に出ようと思ったが喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって誰も居ないので勘定をすることが出来ない。それで勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、そこに一団、かしこに一団という風に人間が寄集まって茫然《ぼうぜん》として空を眺めている。この便所口から柵を越えて逃げ出した人々らしい。空はもう半ば晴れていたが千切《ちぎ》れ千切れの綿雲が嵐の時のように飛んでいた。そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する。出口へ出るとそこでは下足番の婆さんがただ一人落ち散らばった履物《はきもの》の整理をしているのを見付けて、預けた蝙蝠傘《こうもりがさ》を出してもらって館の裏手の集団の中からT画伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒に居た。その時気のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが折れて墜ちている。地震のために折れ落ちたのかそれとも今朝の暴風雨で折れたのか分らない。T君に別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭《かびくさ》い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷《したや》の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗《のぞ》くと石燈籠は一つ残らず象棋《しょうぎ》倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁《よこげた》が外《はず》れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立って桁が落ち砕けていた。坂を下りて見ると不忍弁天《しのばずべんてん》の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。
無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる。この日は二科会を見てから日本橋辺へ出て昼飯を食うつもりで出掛けたのであったが、あの地震を体験し下谷の方から吹上げて来る土埃《つちほこ》りの臭を嗅《か》いで大火を予想し東照宮の石燈籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒潰を見たとき初めてこれはいけないと思った、そうして始めて我家の事が少し気懸りになって来た。
弁天の前に電車が一台停まったまま動きそうもない。車掌に聞いてもいつ動き出すか分らないという。後から考えるとこんなことを聞くのが如何な非常識であったかがよく分るのであるが、その当時自分と同様の質問を車掌に持出した市民の数は万をもって数えられるであろう。
動物園裏まで来ると道路の真中へ畳を持出してその上に病人をねかせているのがあった。人通りのない町はひっそりしていた。根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽《くず》れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町《やなかみさきちょう》から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋《しおせんべいや》の取散らされた店先に烈日の光がさしていたのが心を引いた。団子坂を上って千駄木《せんだぎ》へ来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、所々ただ瓦の一部分剥がれた家があるだけであった。曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並《かどなみ》を照らしている。宅《うち》の玄関へはいると妻は箒《ほうき》を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。隣の家の前の煉瓦塀はすっかり道路へ崩れ落ち、隣と宅の境の石垣も全部、これは宅の方へ倒れている。もし裏庭へ出ていたら危険なわけであった。聞いてみるとかなりひどいゆれ方で居間の唐紙《からかみ》がすっかり倒れ、猫が驚いて庭へ飛出したが、我家の人々は飛出さなかった。これは平生幾度となく家族に云い含めてあったことの効果があったのだというような気がした。ピアノが台の下の小滑車で少しばかり歩き出しており、花瓶台の上の花瓶が板間にころがり落ちたのが不思議に砕けないでちゃんとしていた。あとは瓦が数枚落ちたのと壁に亀裂が入ったくらいのものであった。長男が中学校の始業日で本所《ほんじょ》の果てまで行っていたのだが地震のときはもう帰宅していた。それで、時々の余震はあっても、その余は平日と何も変ったことがないような気がして、ついさきに東京中が火になるだろうと考えたことなどは綺麗に忘れていたのであった。
そのうちに助手の西田君が来て大学の医化学教室が火事だが理学部は無事だという。N君が来る。隣のTM教授が来て市中所々出火だという。縁側から見ると南の空に珍しい積雲《せきうん》が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青《こんじょう》の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭《はげいとう》に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。
夕方藤田君が来て、図書館と法文科も全焼、山上集会所も本部も焼け、理学部では木造の数学教室が焼けたと云う。夕食後E君と白山《はくさん》へ行って蝋燭《ろうそく》を買って来る。TM氏が来て大学の様子を知らせてくれた。夜になってから大学へ様子を見に行く。図書館の書庫の中の燃えているさまが窓外からよく見えた。一晩中くらいはかかって燃えそうに見えた。普通の火事ならば大勢の人が集まっているであろうに、あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた。メートルとキログラムの副原器を収めた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人掛りで消していたが耐火構造の室内は大丈夫と思われた。それにしても屋上にこんな燃草をわざわざ載せたのは愚かな設計であった。物理教室の窓枠の一つに飛火が付いて燃えかけたのを秋山、小沢両理学士が消していた。バケツ一つだけで弥生町《やよいちょう》門外の井戸まで汲みに行ってはぶっかけているのであった。これも捨てておけば建物全体が焼けてしまったであろう。十一時頃帰る途中の電車通りは露宿者で一杯であった。火事で真紅に染まった雲の上には青い月が照らしていた。
九月二日 曇
朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹《へいせん》という文字が頭に浮んだ。また江戸以前のこの辺の景色も想像されるのであった。電線がかたまりこんがらがって道を塞ぎ焼けた電車の骸骨が立往生していた。土蔵もみんな焼け、所々煉瓦塀の残骸が交じっている。焦げた樹木の梢がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のように焼けずに残っている。松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑く咽《むせ》っぽく眼に滲《し》みて進めない。その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難して来る人々の中には顔も両手も癩病患者《らいびょうかんじゃ》のように火膨《ひぶく》れのしたのを左右二人で肩に凭《もた》らせ引きずるようにして連れて来るのがある。そうかと思うとまた反対に向うへ行く人々の中には写真機を下げて遠足にで
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