していた。根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽《くず》れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町《やなかみさきちょう》から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋《しおせんべいや》の取散らされた店先に烈日の光がさしていたのが心を引いた。団子坂を上って千駄木《せんだぎ》へ来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、所々ただ瓦の一部分剥がれた家があるだけであった。曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並《かどなみ》を照らしている。宅《うち》の玄関へはいると妻は箒《ほうき》を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。隣の家の前の煉瓦塀はすっかり道路へ崩れ落ち、隣と宅の境の石垣も全部、これは宅の方へ倒れている。もし裏庭へ出ていたら危険なわけであった。聞いてみるとかなりひどいゆれ方で居間の唐紙《からかみ》がすっかり倒れ、猫が驚いて庭へ飛出したが、我家の人々は飛出さなかった。これは平生幾度となく家族に云い
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