めす殿に屎《くそ》まり散らしき」というのも噴火による降砂降灰の災害を暗示するようにも見られる。「その服屋《はたや》の頂《むね》をうがちて、天《あめ》の斑馬《ふちこま》を逆剥《さかは》ぎに剥《は》ぎて堕《おと》し入るる時にうんぬん」というのでも、火口から噴出された石塊が屋をうがって人を殺したということを暗示する。「すなわち高天原《たかまのはら》皆暗く、葦原中国《あしはらのなかつくに》ことごとに闇《くら》し」というのも、噴煙降灰による天地|晦冥《かいめい》の状を思わせる。「ここに万《よろず》の神の声《おとない》は、狭蠅《さばえ》なす皆|涌《わ》き」は火山鳴動の物すごい心持ちの形容にふさわしい。これらの記事を日蝕《にっしょく》に比べる説もあったようであるが、日蝕のごとき短時間の暗黒状態としては、ここに引用した以外のいろいろな記事が調和しない。神々が鏡や玉を作ったりしてあらゆる方策を講じるという顛末《てんまつ》を叙した記事は、ともかくも、相当な長い時間の経過を暗示するからである。
記紀にはないが、天手力男命《あめのたぢからおのみこと》が、引き明けた岩戸を取って投げたのが、虚空はるかにけし飛んでそれが現在の戸隠山《とがくしやま》になったという話も、やはり火山爆発という現象を夢にも知らない人の国には到底成立しにくい説話である。
誤解を防ぐために一言しておかなければならないことは、ここで自分の言おうとしていることは以上の神話が全部地球物理学的現象を人格化した記述であるという意味では決してない。神々の間に起こったいろいろな事件や葛藤《かっとう》の描写に最もふさわしいものとしてこれらの自然現象の種々相が採用されたものと解釈するほうが穏当であろうと思われるのである。
高志《こし》の八俣《やまた》の大蛇《おろち》の話も火山からふき出す熔岩流《ようがんりゅう》の光景を連想させるものである。「年ごとに来て喫《く》うなる」というのは、噴火の間歇性《かんけつせい》を暗示する。「それが目は酸漿《あかかがち》なして」とあるのは、熔岩流の末端の裂罅《れっか》から内部の灼熱部《しゃくねつぶ》が隠見する状況の記述にふさわしい。「身一つに頭《かしら》八つ尾八つあり」は熔岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流するさまを暗示する。「またその身に蘿《こけ》また檜榲《ひすぎ》生《お》い」というのは熔岩流の表
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