あれば、それはあるいはいかなる手段によってもこの世の中をその一色に塗らなければならない事になるかもしれない。しかし私には、そうは思われない。スペクトルの色がそれぞれに美しいほんとうの色であるように、やはりそれぞれ正しい道なり原理なりが併立しうるように思われる。たとえ道や原理は唯一だとしても、同じ道や原理にもいろいろの相があり面があり、スペクトルがある。もしそうでなかったら、元来宣伝などを待たずして世は自然に一色になっているはずかもしれない。あるいは宣伝というものの存在するという事実自身がまさにこの事を証明しているのかもしれないとさえ思う。
原理の白色光に照らされた時に万象は各自に特有な色彩を現わして柳は緑に花は紅に見える。しかし緑色の宣伝する人は太陽の前に緑色ガラスのスクリーンをかけて、世の中を緑色にしてしまおうと考えているかのように見える場合がある。もしも花が緑にならなければならない道理のある場合ならば、花弁の中に自然に葉緑ができてしかるべきではあるまいか。そうでないところを見ると、紅の花はやはり紅でなければならない理由があるように思う。
古来宣伝法の猛烈なものの中でも猛烈であったと思われるのはマホメットのコーランにおける、オラーフ王のキリスト教におけるごときがそれである。宣伝を受けないものはそのかわりに剣戟《けんげき》を受けねばならなかった。緑色でないあらゆる花はたたき折られふみにじられた。それでも幸いに今日紅紫の花の種は絶えていない。
ナポレオンは「フランス」を宣伝し、カイザーは「ドイツ」を宣伝した。これらはある意味ではたしかにききめはあった。しかしこの場合にも罪のない紅の花は数限りもなく折られ踏みつぶされて、しかしておしまいには宣伝者自身それらの落花の中に埋められた。その墓場からはやはりいろいろの草花が咲き出ている。
宣伝される事がらがかりに「悪い事」や「無理な事」や「危険な事」であったとしたら、その場合には結果はたいして恐るべきものではあるまいと思う。なぜと言えば、そういう宣伝は無制限に波及する気づかいがないからである。これに反して「善《よ》い事」の宣伝のほうはかえってはるかに危険であるかもしれない。なぜとならば、それはひょっとしたらどこまでも広がるかもしれないという恐れがあるからである。そうしてこの一つの「善い事」のために他にあらゆる「善い事」がたたき折られ踏みつぶされる心配があるからである。いくら折られつぶされても決して絶滅する恐れはないにしてもそのために要求される犠牲の価は時には安くないものになる。
そのような侵略的な宣伝が現在どこにあるかと聞かれるとすぐ適例をあげる事は困難かもしれない。しかし現在の宣伝という言葉には、いつでも、どことなしにそういう「におい」があり「影」があると言えば、それはおそらく多くの人が首肯するであろう。ある一部の人々が宣伝というものに対していだいている漠然《ばくぜん》とした反感のようなものも、一つはここに帰因するのであろう。
店の飾りや、広告の楽隊や、旗印を押し立てた自動車やは、あれは最も罪のない宣伝方法に属する。それが陽気で眩目的《げんもくてき》であるだけに効果は大概皮相的で、人の心のほんの上面をなでるだけである。そしてなでられたくない人は、自由にそれを避ける事ができる。人の門内や玄関まで押しかけて来ない。その点でも市会議員の選挙運動などよりはよほど穏やかでいいものである。
政党の宣伝などに行なわるる手段方法については多くを知らないが、いずれにしてもこれは便宜上の動機から来る宣伝で、始めからまじめなものでないから、どちらがどうなっても問題にならない。どんなに弊害があっても、人の心の奥にまで食い込む心配は少ない。
これに反してもっとまじめで真剣なだけにいちばん罪の深い人間的な宣伝の場合と思われるのは、避くべからざる覊絆《きはん》によって結ばれた集団の内部で、暗黙のうちに行なわれる、朋党《ほうとう》の争いである。たとえば昔あったような姑《しゅうとめ》と嫁の争いである。姑は「姑」を宣伝し、嫁は「嫁」を宣伝するために、一家に風波が立つ。双方互角である場合はまだ幸いである。いずれか一方の勢力がまされば禍《わざわい》である。同じような事は、違った人生観や社会観を持った人々の群れの間に行なわれる。いずれも一つの善《よ》い事を宣伝せんために他の善い事の存在を否定するから起こる。困った事にはそれがどちらも善い事なのである。そしてそれを融和すべき相対原理がまだ認められない事である。
「桃や李《すもも》は、物を言わないのに木陰にはひとりでに道ができる。」昔の人はこんな事を言って侵略的宣伝を否定した。しかし今のように桃や李の数がふえてしまっては、この言葉はほんとうに時代遅れになったのかもしれ
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