別にそう押しつけがましい意味はなくてもよいように思う。道や教えを宣《の》べ伝えるという事は、取りようではたいへん穏やかな仕事のように思われる。しかし同じ事でもプロパガンダというとなんだか少し穏やかでないような気持ちがする。これは単にこの言葉の特殊の音響から来る感じなのかもしれない。
一般的に宣伝というものの手段方法が必ずしも穏やかで物静かであってはいけないという事は考えられない。昔の宗教家や聖賢の宣伝にはかなり平和的なのもあったように思われる。しかし今日の「宣伝」という言葉には、まさにそれとは反対な余味があり残味がある。最も平和的なのでも楽隊入りの行列や、旗を立てた自動車や往来人の鼻の先にさしつけられる印刷物や、そういう種類のものがいつでも連想される。もっと穏やかでないものならいくらでもあることは言うまでもない。今日のような世の中ではこういう方法を取るよりほかにしかたがないというところから、自然に流行するようになったものと思われる。ああいう方法によれば少なくも一時的の効果はある程度まで得られるに相違ない。多くの場合にまた宣伝の目的がほんの一時的のものであるとすれば、それで結構なわけであるかもしれない。甲の宣伝の効果が花火のように輝いて消えるころに乙の宣伝が砲声のようにとどろいて来る。そうして一つのものの余響はやがて次の声の中に没し、そういう事が順次に引き続いていつまでも繰り返される。それがちょうどたとえば仕掛け花火か広告塔のイルミネーションでも見るような気がしてならないのである。つまり身にしみるような宣伝はわりに少ない。
善《よ》い事だから宣伝しなければならないという強い信念の下にすべての宣伝は行なわるべきものであろう。便宜その他のあまり真剣でない雑多の動機から行なわるるものもないとは限らないが、そういうものは論外である。ほんとうの宣伝ならば、宣伝さるる事がらの絶対価値に対する強い信念があっての上での事に相違ない。そういう信念があった上でそれを宣伝する方法手段がかなり問題になるわけである。そこでもしこの世の中に「善い事」が一つそしてただ一つしかなかった場合には事がらは誠に簡単であるがたぶんそうでないとなるとめんどうになって来る。
思うに宣伝という事は、言わば「世の中をただ一色に塗りつぶそうとする努力」である。もし世に赤ならば赤、青ならば青が絶対唯一の正しい色で
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