森の絵
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暖かい縁《えん》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)あくる日|銭《ぜに》を貰うて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)木の空にはご[#「はご」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)散り残った枯れ/\の紅葉が
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暖かい縁《えん》に背を丸くして横になる。小枝の先に散り残った枯れ/\の紅葉が目に見えぬ風にふるえ、時に蠅のような小さい虫が小春の日光を浴びて垣根の日陰を斜めに閃く。眩しくなった眼を室内へ移して鴨居《かもい》を見ると、ここにも初冬の「森の絵」の額《がく》が薄ら寒く懸っている。
中景の右の方は樫《かし》か何かの森で、灰色をした逞《たくま》しい大きな幹はスクスクと立ち並んで次第に暗い奥の方へつづく。隙間もない茂りの緑は霜にややさびて得《え》も云われぬ色彩が梢から梢へと柔らかに移り変っている。コバルトの空には玉子色の綿雲が流れて、遠景の広野の果の丘陵に紫の影を落す。森のはずれから近景へかけて石ころの多い小径《こみち》がうねって出る処を橙色の服を着た豆大の人が長い棒を杖にし、前に五、六頭の牛羊を追うてトボトボ出て来る。近景には低い灌木がところどころ茂って中には箒のような枝に枯葉が僅かにくっ付いているのもある。あちらこちらに切り倒された大木の下から、真青な羊歯《しだ》の鋸葉《のこぎりば》が覗いている。
むしろ平凡な画題で、作者もわからぬ。が、自分はこの絵を見る度に静かな田舎の空気が画面から流れ出て、森の香は薫り、鵯《ひよどり》の叫びを聞くような気がする。その外にまだなんだか胸に響くような鋭い喜びと悲しみの念が湧いて来る。
二十年前の我家のすぐ隣りは叔父の屋敷、従兄《いとこ》の信さんの宅《うち》であった。裏畑の竹藪の中の小径から我家と往来が出来て、垣の向うから熟柿が覗けばこちらから烏瓜《からすうり》が笑う。藪の中に一本大きな赤椿があって、鵯の渡る頃は、落ち散る花を笹の枝に貫いて戦遊《いくさあそ》びの陣屋を飾った。木の空にはご[#「はご」に傍点]を仕掛けて鵯を捕った事もある。
叔父の家は富んで、奥座敷などは二十畳もあったろう。美しい毛氈《もうせん》がいつでも敷いてあって、欄間《らんま》に木彫の竜の眼が光っていた。
いつか信さんの部屋へ遊びに行った時、見馴れぬ絵の額がかかっていた。何だと聞いたら油画《あぶらえ》だと云った。その頃田舎では石版刷の油画は珍しかったので、西洋画と云えば学校の臨画帖より外には見たことのない眼に始めてこの油画を見た時の愉快な感じは忘られぬ。画はやはり田舎の風景で、ゆるやかな流れの岸に水車小屋があって柳のような木の下に白い頭巾をかぶった女が家鴨《あひる》に餌でもやっている。何処《どこ》で買ったかと聞いたら、町の新店にこんな絵や、もっと大きな美しいのが沢山に来ている、ナポレオンの戦争の絵があって、それも欲しかったと云う。
家へ帰って夕飯の膳についても絵の事が心をはなれぬ。黄昏《たそがれ》に袖無《そでなし》を羽織って母上と裏の垣で寒竹筍《かんちくたけのこ》を抜きながらも絵の事を思っていた。薄暗いランプの光で寒竹の皮をむきながら美しい絵を思い浮べて、淋しい母の横顔を見ていたら急に心細いような気が胸に吹き入って睫毛《まつげ》に涙がにじんだ。何故泣くかと母に聞かれてなお悲しかった。そんなに欲しくば買って上げる。男のくせにそんな事ではと諭《さと》されて更にしゃくり上げた。母は虫抑えの薬を取り出して呑ませてくれたがあの時の自分の心は今でも説明は出来ぬ。幼く片親の手一つで育ってあまり豊かでない生活が朧げに胸にしみ浮世の木枯しはもう周囲に迫っていたから、何かの刺戟はすぐに訳のわからぬ悲しみを誘うたのだ。
あくる日|銭《ぜに》を貰うて先ず学校へ行ったが、教場でも時々絵の事に心を奪われ、先生に何か聞かれても何を聞かれたか分らぬような事もあった。放課のベルを待ち兼ねて学校を飛出し、信さんに教わった新店を尋ねたら、すぐにわかった。店へはいると一面に吊した絵のニスの香に酔うてしまう。あれも好い。これも気に入った。鍛冶屋《かじや》の煙突から吹き出る真赤な焔が黒い樹に映えて遠い森の上に青い月が出ている絵も欲しかったが、何となく静かなこの「森の絵」にきめた。粗末な額縁をはめてもらってその上を大事に新聞で包んで店を出た時は、心臓が高い音を立てて踊っていた。
帰り途に旧城の後ろを通った。御城の杉の梢は丁度この絵と同じようなさびた色をして、お濠《ほり》の石崖の上には葉をふるうた椋《むく》の大木が、枯菰《かれこも》の中のつめたい水に影を落している。濠に隣《とな》っ
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