彫の竜の眼が光っていた。
 いつか信さんの部屋へ遊びに行った時、見馴れぬ絵の額がかかっていた。何だと聞いたら油画《あぶらえ》だと云った。その頃田舎では石版刷の油画は珍しかったので、西洋画と云えば学校の臨画帖より外には見たことのない眼に始めてこの油画を見た時の愉快な感じは忘られぬ。画はやはり田舎の風景で、ゆるやかな流れの岸に水車小屋があって柳のような木の下に白い頭巾をかぶった女が家鴨《あひる》に餌でもやっている。何処《どこ》で買ったかと聞いたら、町の新店にこんな絵や、もっと大きな美しいのが沢山に来ている、ナポレオンの戦争の絵があって、それも欲しかったと云う。
 家へ帰って夕飯の膳についても絵の事が心をはなれぬ。黄昏《たそがれ》に袖無《そでなし》を羽織って母上と裏の垣で寒竹筍《かんちくたけのこ》を抜きながらも絵の事を思っていた。薄暗いランプの光で寒竹の皮をむきながら美しい絵を思い浮べて、淋しい母の横顔を見ていたら急に心細いような気が胸に吹き入って睫毛《まつげ》に涙がにじんだ。何故泣くかと母に聞かれてなお悲しかった。そんなに欲しくば買って上げる。男のくせにそんな事ではと諭《さと》されて更にしゃくり上げた。母は虫抑えの薬を取り出して呑ませてくれたがあの時の自分の心は今でも説明は出来ぬ。幼く片親の手一つで育ってあまり豊かでない生活が朧げに胸にしみ浮世の木枯しはもう周囲に迫っていたから、何かの刺戟はすぐに訳のわからぬ悲しみを誘うたのだ。
 あくる日|銭《ぜに》を貰うて先ず学校へ行ったが、教場でも時々絵の事に心を奪われ、先生に何か聞かれても何を聞かれたか分らぬような事もあった。放課のベルを待ち兼ねて学校を飛出し、信さんに教わった新店を尋ねたら、すぐにわかった。店へはいると一面に吊した絵のニスの香に酔うてしまう。あれも好い。これも気に入った。鍛冶屋《かじや》の煙突から吹き出る真赤な焔が黒い樹に映えて遠い森の上に青い月が出ている絵も欲しかったが、何となく静かなこの「森の絵」にきめた。粗末な額縁をはめてもらってその上を大事に新聞で包んで店を出た時は、心臓が高い音を立てて踊っていた。
 帰り途に旧城の後ろを通った。御城の杉の梢は丁度この絵と同じようなさびた色をして、お濠《ほり》の石崖の上には葉をふるうた椋《むく》の大木が、枯菰《かれこも》の中のつめたい水に影を落している。濠に隣《とな》っ
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