新年雑俎
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)這入《はい》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近所|合壁《かっぺき》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)考慮に入[#「入」は底本では「人」]れた
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 数年前までは正月元旦か二日に、近い親類だけは年賀に廻ることにしていた。そうして出たついでに近所|合壁《かっぺき》の家だけは玄関まで侵入して名刺受けにこっそり名刺を入れておいてから一遍奥の方を向いて御辞儀をすることにしていたのであるが、いつか元旦か二日かが大変に寒くて、おしまいには雪になったことがあって、その時に風邪を引いて持病の胃に障害を起したような機会から、とうとう思い切って年賀廻りを廃してしまった。すると、その翌年は正月がたいそう暖かくて廻礼廃止理由の成立が少々怪しくなったようであった。
 年賀に行くと大抵応接間か客座敷に通されるのであるが、そうした部屋は先客がない限り全く火の気がなくて永いこと冷却されていた歴史をもった部屋である。這入《はい》って見廻しただけで既に胴ぶるいの出そうな冷たさをもった部屋である。置時計、銅像、懸物、活花《いけばな》、ことごとくが寒々として見えるから妙である。
 瓦斯《ガス》ストーヴでもあると助かるが、さもなくて、大分しばらく待たされてから、やっと大きな火鉢の真中に小さな火種を入れて持参されたのでは、火のおこるまでに骨の髄まで凍ってしまいそうな気がする。またストーヴがあるにはあっても、その部屋の容量を考慮に入れないで瓦斯消費量のみを考慮に入[#「入」は底本では「人」]れたようなストーヴだと効果はやはり同様である。そういう寒い部屋で相対坐している主人に百パーセントの好意を感じようとするのは並々ならぬ意志の力を必要とするようである。
 多くの家では玄関は家の日裏にあり北極にあたる。昼頃近くになっても霜柱の消えないような玄関の前に立って呼鈴《よびりん》を鳴らしてもなかなかすぐには反応がなくて立往生をしていると、凜冽《りんれつ》たる朔風《さくふう》は門内の凍《い》てた鋪石《しきいし》の面を吹いて安物の外套《がいとう》を穿《うが》つのである。やっと通されると応接間というのがまた大概きまって家中で一番日当りの悪い一番寒い部屋になっているようである。
 自分が昔現在の家を建てたとき一番日当りがよくて庭の眺めのいい室を応接間にしたら、ある口の悪い奥さんから「たいそう御客様本位ですね」と云って、底に一抹《いちまつ》の軽い非難を含んだような讃辞を頂戴したことがあった。この奥さんの寸言の深い意味に思い当る次第である。
 屠蘇《とそ》と吸物が出る。この屠蘇の盃が往々甚だしく多量の塵埃を被《かぶ》っていることがある。尤も屠蘇そのものが既に塵埃の集塊のようなものかもしれないが、正月の引盃《ひきさかずき》の朱漆の面に膠着《こうちゃく》した塵はこれとは性質がちがい、また附着した菌の数も相当に多そうである。日当りの悪い部屋だと塵の目立たぬ代りに菌数は多いであろう。アルコールで消毒はされるかもしれないがあまり気持の好いものではない。
 屠蘇と一緒に出される吸物も案外に厄介《やっかい》なものである。歯の悪いのに蛤《はまぐり》の吸物などは一番当惑する。吉例だとあって朝鮮の鶴と称するものの吸物を出す家があったが、それが妙に天井の煤《すす》のような臭気のある襤褸切《ぼろぎ》れのような、どうにも咽喉に這入りかねるものであった。
 御膳が出て御馳走が色々並んでも綺麗な色取りを第一にしたお正月料理は結局見るだけのものである。
 二、三軒廻って吸物の汁だけ吸うのでも、胸がいっぱいになってしまう。そうして新玉《あらたま》の春の空の光がひどく憂鬱に見えるのである。
 子供の時分の正月の記憶で身に沁みた寒さに関するものは、着馴れぬ絹物の妙につめたい手ざわりと、穿《は》きなれぬまちの高い袴《はかま》に釣上げられた裾の冷え心地であった。その高い襠《まち》で擦《す》れた内股《うちまた》にひびが切れて、風呂に入るとこれにひどくしみて痛むのもつらかった。
 今はどうか知らないが昔の田舎の風として来客に食物を無理強《むりじ》いに強いるのが礼の厚いものとなっていたから、雑煮《ぞうに》でももう喰べられないといってもなかなかゆるしてくれなかったものである。尤も雑煮の競食などということが普通に行われていた頃であるから多くの人には切餅の一片二片は問題にならなかったかもしれないが、四軒五軒と廻る先々での一片二片はそうそう楽なものではないのである。いよいよはいり切らなくなって吐き出し始めたら餅が一とつながりの紐《ひも》になって果てしもなく続いて出て来たなどという話を聞かされたこともある。真
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