気がちがって来た」というのである。一と月後には下の平野におとずれるはずの初秋がもうここまで来ているのである。
 沓掛《くつかけ》駅の野天のプラットフォームに下りたった時の心持は、一駅前の軽井沢とは全く別である。物々しさの代りに心安さがある。
 星野温泉行のバスが、千ヶ滝《せんがたき》道から右に切れると、どこともなくぷんと強い松の匂いがする。小松のみどりが強烈な日光に照らされて樹脂中の揮発成分を放散するのであろう。この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。
 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯《うぐいす》が鳴き郭公《かっこう》が呼ぶ。落葉松《からまつ》の林中には蝉時雨《せみしぐれ》が降り、道端には草藤《くさふじ》、ほたるぶくろ、ぎぼし、がんぴなどが咲き乱れ、草苺《くさいちご》やぐみに似た赤いものが実っている、沢へ下りると細流にウォータークレスのようなものが密生し、柵囲いの中には山葵《わさび》が作ってある。沢の奥の行きづまりには崩れかかったプールの廃墟に水馬《みずすまし》がニンプの舞踊を踊っている。どこか泉鏡花の小
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