浅間山麓より
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甕《かめ》の

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 真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕《かめ》の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘《あえ》ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠《うすいとうげ》の第一トンネルにかかるころには、もうこの異常高温層の表面近く浮かみ上がって、乗客はそろそろ海抜五百メートルの空気を皮膚に鼻にまた唇に感じはじめる。そうして頂上の峠の海抜九百五十メートルまで、実に四百五十メートルの高さをわずかの時間の間に客車の腰掛に腰かけたままで上昇する。そうして普通の上空気温低下率から計算しても約摂氏五度ほどの気温降下を経験する。それで乗客の感覚の上では、恰度《ちょうど》かなりな不連続線の通過に遭遇したと同等な効果になるわけである。しかし、乗客はみな、そんな面倒なことなどは考えないで「ああ涼しい」という。科学的な客観的な言葉を用いたがる現代人は「空気がちがって来た」というのである。一と月後には下の平野におとずれるはずの初秋がもうここまで来ているのである。
 沓掛《くつかけ》駅の野天のプラットフォームに下りたった時の心持は、一駅前の軽井沢とは全く別である。物々しさの代りに心安さがある。
 星野温泉行のバスが、千ヶ滝《せんがたき》道から右に切れると、どこともなくぷんと強い松の匂いがする。小松のみどりが強烈な日光に照らされて樹脂中の揮発成分を放散するのであろう。この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。
 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯《うぐいす》が鳴き郭公《かっこう》が呼ぶ。落葉松《からまつ》の林中には蝉時雨《せみしぐれ》が降り、道端には草藤《くさふじ》、ほたるぶくろ、ぎぼし、がんぴなどが咲き乱れ、草苺《くさいちご》やぐみに似た赤いものが実っている、沢へ下りると細流にウォータークレスのようなものが密生し、柵囲いの中には山葵《わさび》が作ってある。沢の奥の行きづまりには崩れかかったプールの廃墟に水馬《みずすまし》がニンプの舞踊を踊っている。どこか泉鏡花の小
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