云ってけなす人もあるが、たとえ迷信だとしてもこれらはよほどたちのいい迷信である。どの途《みち》迷信は人間にはつきものであって、これのない人はどこにもない。科学者には科学上の迷信があり、思想家には思想上の迷信がある。迷信でたちの悪いのは国を亡《ほろぼ》し民族を危うくするのもあり、あるいは親子兄弟を泣かせ終《つい》には我身を滅ぼすのがいくらでもある。しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。戦地の寒空の塹壕《ざんごう》の中で生きる死ぬるの瀬戸際《せとぎわ》に立つ人にとっては、たった一片の布片《ぬのきれ》とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁《し》みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出《い》で立って行けば、勝負事なら勝味《かちみ》が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。
 一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それ
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