千人針
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)千人針《せんにんばり》の寄進が行われ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|助太刀《すけだち》に出かける

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和七年四月『セルパン』)
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 去年の暮から春へかけて、欠食児童のための女学生募金や、メガフォン入りの男学生の出征兵士や軍馬のための募金が流行したが、これらはいつの間にか下火になった。そうしてこの頃では到る処の街頭で千人針《せんにんばり》の寄進が行われている。これは男子には関係のないだけに、街頭は街頭でも、何となくしめやかにしとやかに行われている。それだけに救世軍の鍋などとはよほどちがった感じを傍観者に与えるものである。如何にも兵隊さんの細君《さいくん》らしい人などが赤ん坊を負ぶっているのに針を通してやっている人がやはり同じ階級らしいおばさんや娘さんらしい人であったりすると実に物事が自然で着実でどうにも悪い心持のしようがない。そうした事柄が如何にも純粋に日本的だという気がするのである。迷信だと云ってけなす人もあるが、たとえ迷信だとしてもこれらはよほどたちのいい迷信である。どの途《みち》迷信は人間にはつきものであって、これのない人はどこにもない。科学者には科学上の迷信があり、思想家には思想上の迷信がある。迷信でたちの悪いのは国を亡《ほろぼ》し民族を危うくするのもあり、あるいは親子兄弟を泣かせ終《つい》には我身を滅ぼすのがいくらでもある。しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。戦地の寒空の塹壕《ざんごう》の中で生きる死ぬるの瀬戸際《せとぎわ》に立つ人にとっては、たった一片の布片《ぬのきれ》とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁《し》みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出《い》で立って行けば、勝負事なら勝味《かちみ》が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。
 一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それに針や糸を渡し受取り、布片を延べたり、○印を一つ選定したりするにもかれこれ此れと同じくらいはかかる。それであとからあとから縫い手が押しかけてくれればともかく、そうでないとすると一分に一針平均はよほど六《むつ》ヶしいであろう。しかし仮りに一分に一つとしても、千針に対しては十六時と四十分を要する。八時間労働としても二日では少し足りない。なかなか大変な仕事である。閑人の道楽ならばいいが、仕事のあるお神さんやおばさん達にはあまり楽な仕事ではなさそうである。
 上野広小路の喫茶店へはいった。年若い芸者を二人連れた若旦那の一組がコーヒーをのんでいる。その前に女学生が二人立っている。二人の芸者はそれぞれ一つずつ千人針の布片を手にもったままで女学生と何かしら問答している。千人針が縁となってここに二つのかなり遠くかけはなれた若い女の世界が接近して、互いにいくらか物珍しい興味をもって交渉しているのである。若旦那も時々|助太刀《すけだち》に出かける。それが大変に丁寧な言葉を遣《つか》っているのに対して女学生の言葉が思いの外にぞんざいである。問答ばかりでなかなか容易には肝心の針の方に手が行かない。対話の末に、今日の四時何十分とかに出発する人々に贈るのだということがわかってからやっと針が動き始めて間もなく出来上がった。その前にそこの給仕の少女等にも縫ってもらったのだと見えて、これにも礼を云ってさっさと出て行った。若旦那が、僕は御役に立たないがせめても、といったようなことを云って、そうして「万歳」と云って片手を上げた。それはとにかく、この場合はたった二針縫ってもらうのに少なくも十分はかかったようであった。四時何十分の汽車に間に合ったかどうか、それは知るよしもない。
 日清日露戦争には厳島《いつくしま》神社のしゃもじが流行したように思う。あれは「めしとる」という意味であったそうである。千人針にもついでに五銭白銅を縫付け「しせんを越える」というおまじないにする人もあるという話である。これも後世のために記録しておくべき史実の一つである。いずれにしても愛嬌《あいきょう》があって、そうして何らの害毒を流す恐れのないのみならず、結果においては意外に好果をも結び得る種類の事柄である。これに反してどんなにもっと恐ろしい色々の迷信が今の世に行われて、そのためにどんなに恐ろしい害毒を流しているか、そっちの方が実に
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