て杏《あんず》を買って来さして二人で食っていた。自分は dy[#「dy」はイタリック体、縦中横]/dx[#「dx」はイタリック体、縦中横] をやりながら聞くともなしに二人の対話を聞いていたら、雪ちゃんの声で「……角《かど》の店のを食ったの。そりゃホントニおいしいのよ。オソラク[#「オソラク」に傍点]」と云った。このオソラクが甲走《かんばし》った声であったので、自分はふと耳を立てると、男の声で「オソラクってそりゃ何の事だ。誰に習ったのか」と軽く笑いながら問う。あとはくすぐられるような雪ちゃんの笑い声がしばらく二階中に響き渡った。
自分が暑中休暇で帰省する四、五日前、夕飯を持って来た主婦が「わたしこれから出ますが何か御使いはありませぬか」との前置をおいての問わず語りに、その日雪ちゃんはどうかして主婦に叱られ、そのまま家を出てすべて帰って来ぬ故これから心当りへ尋ねて行かねばならぬとの事であった。その夕方親類のおばさんにつれられて帰って来たとばかり、その上の事情はさらに知る事が出来なかった。
行李《こうり》を車へ積んで主人に暇《いとま》をつげ車へ上って上を見ると、二階に雪ちゃんが立っていてボンヤリ空を眺めていた。国へ帰って後《のち》病を得て一年休学する事になり、友に託して荷物は親類へ預けてしまい、しばらくしての友の手紙に雪ちゃんの家は他へ譲り渡し、主人は寺番に、雪ちゃんはある医学士の家へ小間使に上がったが、主婦に関してはすべて消息を知る事が出来ぬとの事であった。医科の男は相変らずこの家の二階の同じ室に居ると見えて、音読の声が友の下宿の二階に聞えているそうである。
雪ちゃんとその家庭について誌《しる》すべき事はこれだけである。このむしろ長々しい、つまらぬ叙事を読んで幾分かの興味を感ずる人があれば、それはおそらく隣の下宿にいた友くらいなものであろう。[#地から1字上げ](明治三十四年)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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