ると先達《せんだっ》て生れた妹の利ちゃんに対するとその間に何のちがいも自分には認められなかったとは云え。
 主婦は親切であったが、色の蒼白い、眉の間には始終《しじゅう》憂鬱な影がちらついて、そして時々工合が悪いと云っては梯子《はしご》の上り下りの苦しそうな事があり、また力無い咳をするところなどを見るとあるいはと思う事があって友に計ったが、この家に数年前から泊っていて、ほとんど家内同様になっている医科の男があってそれが一向引越しもしないところから見るとまさかそうではあるまいと云うので、格別気にも止めなかったのである。雪ちゃんもこの色の蒼白いそして脊のすらりとしたところは主婦に似ていて、朝|手水《ちょうず》の水を汲むとて井戸縄にすがる細い腕を見ると何だかいたいたしくも思われ、また散歩に出掛ける途中、御使いから帰って来るのに会う時御辞儀をして自分を見て微笑する顔の淋しさなどを考え、この児には何処にか病気でも潜んでいるではないかと云う気がしていた。亡妹に似ていると云うのがますますこの感じを深くしたのであろう。それにもかかわらず雪ちゃんは壮健で至って元気のよい子であった。利ちゃんが何かいたずらでもした時に叱りつける声はどうしてこの細いかよわい咽《のど》から出るのかと思うようで、何か御使いでも云いつけらるると飛鳥のように飛んで出て疾風のごとく帰って来る。こう云う性質のためであるか、雪ちゃんの友達は多く自分より年下の男の子であった。隣家に同年輩の娘子供はずいぶんないでもなかったのにこれらとはとにかく遊ばなかった。何故だろうと考えてみた事もあった。隣は多く小官吏であったのである。
 ある日の事、昼の休みに帰って来て二階へ上がろうとした時、階段に凭《もた》れてうつふしになっていた。「ドーシタノ。」聞いたが返事がなかったからそのまま駆上がると主婦が昼飯を持って上がって来た。雪ちゃんもついて来て入り口の柱へもたれて浮かぬ顔でボンヤリしている。眼のふちが少し赤い。ちょうど机の上に昨夕買って来た『新声《しんせい》』の卯花衣《うのはなごろも》があったから、「雪チャン。これを御覧。綺麗な画《え》があるよ」と云うたら返事はなくて悲しげに微笑した。「ドーモまだ孩児《こども》で……」と主婦が云った。この悲しげな微笑はいまだに忘れる事が出来ない。
 またある日の事であった。隣室の医科の男が雪ちゃんに命じ
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