青衣童女像
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)神保町《じんぼうちょう》を歩いていたら

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(例)※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]
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 木枯らしの夜おそく神保町《じんぼうちょう》を歩いていたら、版画と額縁を並べた露店の片すみに立てかけた一枚の彩色石版《クロモリソグラフ》が目についた。青衣の西洋少女が合掌して上目に聖母像を見守る半身像である。これを見ると同時にある古いなつかしい記憶が一時に火をつけたようによみがえって来た。木枯らしにまたたく街路の彩燈の錦《にしき》の中にさまざまの幻影が浮かびまた消えるような気がするのであった。
 十四五歳のころであったかと思う。そのころ田舎《いなか》では珍しかった舶来の彩色石版の美しさにひどく心酔したものであった。われわれはそれを「油絵」と呼んでいたが、ほんとうの油絵というものはもちろんまだ見た事がなかったのである。この版画の油絵はたしかに一つの天啓、未知の世界から使者として一人の田舎少年《いなかしょうねん》の柴《しば》の戸ぼそにおとずれたようなものであったらしい。
 当時は町の夜店に「のぞきからくり」がまだ幅をきかせていた時代である。小栗判官《おぐりはんかん》、頼光《らいこう》の大江山《おおえやま》鬼退治、阿波《あわ》の鳴戸《なると》、三荘太夫《さんしょうだゆう》の鋸引《のこぎりび》き、そういったようなものの陰惨にグロテスクな映画がおびえた空想の闇《やみ》に浮き上がり、しゃがれ声をふりしぼるからくり師の歌がカンテラのすすとともに乱れ合っていたころの話である。そうして東京みやげの「江戸絵」を染めたアニリン色素のなまなましい彩色がまだ柔らかい網膜を残忍にただらせていたころの事である。こういうものに比べて見たときに、このいわゆる「油絵」の温雅で明媚《めいび》な色彩はたしかに驚くべき発見であり啓示でなければならなかった。遠い美しい夢の天国が夕ばえの雲のかなたからさし招いているようなものであった。
 当時の自分のこの「油絵」の貧しいコレクションの中には「シヨンの古城」があった。それからたしかルツェルンかチューリヒ湖畔の風景もあった。スイスの湖水と氷河の幻はそれか
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