これらの絵の事は実際にもう長い間自分の識域の底深く沈んでいたのであった。神田《かんだ》の夜店の木枯らしの中に認めたこの青衣少女の二重像《ドッペルゲンガー》はこのほとんど消えてしまっていた記憶を一時に燃え上がらせた。少女は四十年前と同じ若々しさ、あどけなさをそのままに保存してエメラルド色のひとみを上げて壁間の聖母像に見入っているのである。着物の青も豊頬《ほうきょう》の紅も昔よりもかえって新鮮なように思われるのであった。
 ただ一瞥《いちべつ》を与えただけで自分は惰性的に神保町の停車場まで来てしまった。この次に見つけたらあれを買って来るのだと思いついた時には、自分をのせた電車はもう水道橋《すいどうばし》を越えて霜夜の北の空に向かって走っていた。昔のわが家の油絵はどうなったか、それを聞き出す唯一の手がかりはもう六年前になくなった母とともに郷里の久万山《くまやま》の墓所の赤土の中にうずもれてしまっているのであった。
 その後おりおり神保町の夜店をひやかすようなときは、それとなく気をつけているが、この青衣少女にはめぐり会わない。夏がやって来た。夕方浴後の涼風を求めて神田の街路をそぞろ歩きするたびにはこの「初恋」の少女の姿を物色する五十四歳の自分を発見して微笑する。そうしてウェルズの短編「壁の扉《とびら》」の幻覚を思い出しながら、この次にいついかなる思いもかけぬ時と場所で再びこの童女像にめぐり会うであろうかという可能性を、さじの先でかき回しながら一杯の不二家《ふじや》のコーヒーをすするのである。
[#地から3字上げ](昭和六年九月、雑味)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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