生ける人形
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田舎《いなか》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夕飯後|明治座《めいじざ》へ行った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和七年六月、東京朝日新聞)
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 四十年ほど昔の話である。郷里の田舎《いなか》に亀《かめ》さんという十歳ぐらいの男の子があった。それが生まれてはじめて芝居というものを見せられたあとで、だれかからその演劇の第一印象をきかれた時に亀さんはこう答えた。「妙なばんばが出て来て、妙なじんまをずいて、ずいてずきすえた」これを翻訳すると「変な老婆が登場して、変な老爺《ろうや》をしかり飛ばした」というのである。その芝居の下手《へた》さが想像される。
 つい近ごろある映画の試写会に出席したら、すぐ前の席にやはり十歳ぐらいの男の子を連れた老紳士がいた。その子供がおそらく生まれてはじめて映画というものを見たのではないかと想像されたのは、映画中なんべんとなく「はあー、いろんなことがあるんだねえ。……はあ、いろんなことがあるんだねえ」という嘆声を繰り返していたからである。実際その映画にはおとなにもおもしろい「いろんな」ことがあったのである。
 見なれた人にはなんでもない物事に対する、これを始めて見た人の幼稚な感想の表現には往々人をして破顔微笑せしめるものがあるのである。
 文楽の人形芝居については自分も今まで話にはいろいろ聞かされ、雑誌などでいろいろの人の研究や評論などを読んではいながら、ついつい一度もその演技を実見する機会がなかった。それが最近に不思議な因縁からある日の東京劇場におけるその演技を臍《ほぞ》の緒切って始めて見物するような回り合わせになった。それで、この場合における自分と、前記の亀《かめ》さんや試写会の子供とちがうのはただ四十余年の年齢の相違だけである。従ってこの年取った子供のこの一夕の観覧の第一印象の記録は文楽通の読者にとってやはりそれだけの興味があるかもしれない。
 入場したときは三勝半七《さんかつはんしち》酒屋の段が進行していた。
 人形そのものの形態は、すでにたびたび実物を展覧会などで見たりあるいは写真で見たりして一通りは知っていたのであるが、人形芝居の舞台装置のことについては全く何事も知らなかったので、まず何よりもその点が自分の好奇的な注意をひいた。まず鴨居《かもい》からつるした障子や木戸の模型がおもしろかった。次におもしろいと思ったのは、舞台面の仮想的の床《ゆか》がずっと高くなり、天井がずっと低くなって天地が圧縮され、従って縮小された道具とその前に動く人形との尺度の比例がちょうど適当な比例になっているために、人形のほうが現実性を帯びるとともに人形使いのほうがかえって非現実的になってくるということである。そのため人形のほうが人間になり、人間のほうが道具になっているのである。
 見ない前にはさだめて目ざわりになるだろうと予期していた人形使いの存在が、はじめて見たときからいっこう邪魔に感ぜられなかったのは全くこの尺度の関係からくる錯覚のおかげらしい。黒子《くろこ》を着た助手などはほとんどただぼやけた陰影ぐらいにしか見えないのである。
 酒屋の段は、こんな事を感心しているうちにすんでしまった。次には松王丸《まつおうまる》の首実検である。最初に登場する寺子屋の寺子らははなはだ無邪気でグロテスクなお化けたちであるが、この悲劇への序曲として後にきたるべきもののコントラストとしての存在である以上は、こうした粗末な下手《へた》な子供人形のほうが、あるいはかえって生きたよだれくりどもよりよいともいわれる。
 松王丸《まつおうまる》の松王丸らしいのに驚かされた。人間の役者の扮《ふん》した松王丸の中には、どうしても、その役者が隠れていて、しかも大いにのさばっているために、われわれは浄瑠璃《じょうるり》の松王丸を見るかわりに俳優何某の松王丸しか見ることができないのであるが、この人形の松王丸となると、それが正真正銘の浄瑠璃の世界から抜けだして来た本物の松王丸そのものになっている。つまり絶対の松王丸になっているのである。そうしてそれがそれほど誇張されない身ぶりの運動のモンタージュによって、あらゆる悲痛の腹芸を演ずるからおもしろいのである。
 松王丸の妻もよくできていた。源蔵《げんぞう》の妻よりもどこか品格がよくて、そうして実にまた、いかなる役者の女形《おんながた》がほんとうの女よりも女らしいよりもさらにいっそうより多く女らしく見える。女の人形の運動は男のよりもより多く細かな曲線を描くのはもとより当然であるが、それが人形であるためにそういう運動の特徴がいっそう抽象示揚されるのであろ
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