ところがあります。このようにあるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れが狭い海峡を入るために後れ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。
このような訳ですから広い灘と灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うようなところも出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れが出来ます。瀬戸内海にはこのような場所が沢山にあります。中でも早吸《はやすい》の瀬戸などは神武天皇が東征の時に御通りになったというので、歴史で名高くその名も潮流の早い事を示していて大変に面白い名でありますが、今ではただ豊後《ぶんご》海峡と呼ばれています。伊予の西の端に指のように突き出た佐田岬《さだみさき》半島と豊後の佐賀《さが》の関《せき》半島とは、大昔には四国から九州につながった一つの山脈であったのが、海峡の辺《ほとり》の大地が落ち込んだためにあのような半島とこの豊後海峡が出来たという事です。今でもこの海峡には海の底に狭い敷居のような浅いところが連なってその両側はそれより百|尋《ひろ》以上も深く掘れ窪んでいます。この海峡は大洋から瀬戸内海に通ずる入口の中で一番広いから内海に出入りする海水も主にここから出入りするので、潮流もなかなか早く通例一時間三、四海里くらいの速度であります。このような流れが海の底の敷居を越える時には、丁度|橋杙《はしくい》などの下流が掘れくぼむと同じような訳で、敷居の下流のところがだんだんに深くなったのであろうという説があります。
このほか名高い瀬戸や普通の人の知らぬ瀬戸で潮流の早いところは沢山ありますが、しかし、何といっても阿波《あわ》と淡路《あわじ》の間の鳴門《なると》が一番著しいものでしょう。この海峡は幅がわずか十五町くらいで、しかもその内に浅瀬の部分があるので深いところは幅五町くらいなものです。この瀬戸の両側では潮の満干が丁度反対になるので、両側の海面が一番喰い違う時は高さが五尺ほど違います。
ここに出した地図で左側の陸地が阿波、右側の陸地が淡路です。Aの辺は深さが四、五十尋ですが、Bの辺は浅くて十尋以下です。海の底の泥などは潮流に洗い流されて岩があらわれています。図は上げ潮の時の有様ですから、潮流はDの方からAB
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