」、第3水準1−90−47]葉《さくよう》まで添えたものを送ってよこされた人があって、すっかり恐縮してしまったことがあった。こうなると迂闊《うかつ》に小品文や随筆など書くのはつつしまなければならないという気がしたのであった。
 ある時はまたやはり「花物語」の一節にある幼児のことを、それが著者のどの子供であるかという質問をよこした先生があった。その時はあまり立入った質問だと思ったのでつい失礼な返事を出してしまった。理科の教科書ならばとにかく多少でも文学的な作品を児童に読ませるのに、それほど分析的に煩雑な註解を加えるのは却って児童のために不利益ではないかと思うというようなことを書き送ったような気がする。これは後で悪かったと思った。
 以上挙げたような諸例はいずれも著者にとっては有難い親切な読者からの反響であるが稀には有難くない手紙をくれる人もある、例えば、昨年であったか、ある未知の人から来た手紙を読んでみると、先ず最初に自分の経歴を述べ、永年新聞社の探訪係を勤めていたということを書いたあとで、小説家や戯曲家はみんなどこかから種を盗んで来てそれを元にして自分の原稿をこしらえるのだが、自分は知名の文士の誰々の種の出所をちゃんと知っている、と云ったようなことを書きならべ、貴下の随筆も必ず何か種の出所があるだろうというようなことを婉曲《えんきょく》に諷《ふう》した後に、急に方向を一転して自分の生活の刻下の窮状を描写し、つまりは若干の助力に預りたいという結論に到達しているのであった。筆跡もなかなか立派だし文章も達者である。こんな手紙よりもその人の多年の探訪生活の記録をかかせたらきっと面白いであろうと思われた。それはとにかくこの人の云う通り、自分なども五十年来書物から人間から自然からこそこそ盗み集めた種に少しばかり尾鰭《おひれ》をつけて全部自分で発明したか、母の胎内から持って生れて来たような顔をして書いているのは全くの事実なのである。
 人から咎められなくても自分でも気が咎めるのは、一度どこかで書いたような事をもう一度別の随筆の中で書かなければ工合の悪いようなはめになった時である。尤もそれ自身では同じ事柄でも前後の関係がちがって来ればその内容もまたちがった意義をもって来ることは可能であるが、そういう場合でも同じ読者が見ればきっと「またか」と思うに相違ない。
 現に自分でも他人の書い
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