と末梢《まっしょう》のほうへ出払ってしまって、急に頭の中が萎縮《いしゅく》してしまうような気がする。実際脳の灰白質を養う血管の中の圧力がどれだけ減るのかあるいは増すのかわからないが、ともかくもそんな気がする。そうしてなんとなく空虚と倦怠《けんたい》を感じると同時に妙な精神の不安が頭をもたげて来る。なんだかしなくてはならない要件を打ち捨ててでもあるような心持ちが始終につきまとっている。それが少しひどくなって来ると、自分が何かしらもっと積極的な悪事を犯していて、今にもその応報を受けるべき時節が到来しそうな心持ちになる。これがもう一歩進むと立派な精神病になるのだが幸いにそこまでにはならない。そうしてこういう時はちょっと風呂《ふろ》にでもはいって来ると全く生まれ変わったように常態に復する。
このような変化がどうして起こるかはわからないが、いちばん直接な原因はやはり血液の循環の模様が変わったために脳の物質にどうにか反応する点にあると素人《しろうと》考えに考えている。そのどうにかが一番の問題である。
物質と生命の間に橋のかかるのはまだいつの事かわからない。生物学者や遺伝学者は生命を切り砕いて細胞の中へ追い込んだ。そしてさらにその中に踏み込んで染色体の内部に親と子の生命の連鎖をつかもうとして骨を折っている。物理学者や化学者は物質を磨《す》り砕いて原子の内部に運転する電子の系統を探っている。そうして同一物質の原子の中にある或《あ》る「個性」の胚子《はいし》を認めんとしているものもある。化学的の分析と合成は次第に精微をきわめて驚くべき複雑な分子や膠質粒《こうしつりゅう》が試験管の中で自由にされている。最も複雑な分子と細胞内の微粒との距離ははなはだ近そうに見える。しかしその距離は全く吾人《ごじん》現在の知識で想像し得られないものである。山の両側から掘って行くトンネルがだんだん互いに近づいて最後のつるはしの一撃でぽこりと相通ずるような日がいつ来るか全く見当がつかない。あるいはそういう日は来ないかもしれない。しかし科学者の多くはそれを目あてに不休の努力を続けている。もしそれが成効して生命の物理的説明がついたらどうであろう。
科学というものを知らずに毛ぎらいする人はそういう日をのろうかもしれない。しかし生命の不思議がほんとうに味わわれるのはその日からであろう。生命の物理的説明とは生命を抹殺《まっさつ》する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫《びまん》する生命」を発見する事でなければならない。
物質と生命をただそのままに祭壇の上に並べ飾って賛美するのもいいかもしれない。それはちょうど人生の表層に浮き上がった現象をそのままに遠くからながめて甘く美しいロマンスに酔おうとするようなものである。
これから先の多くの人間がそれに満足ができるものであろうか。
私は生命の物質的説明という事からほんとうの宗教もほんとうの芸術も生まれて来なければならないような気がする。ほんとうの神秘を見つけるにはあらゆる贋物《にせもの》を破棄しなくてはならないという気がする。
六
日本の春は太平洋から来る。
ある日二階の縁側に立って南から西の空に浮かぶ雲をながめていた。上層の風は西から東へ流れているらしく、それが地形の影響を受けて上方に吹きあがる所には雲ができてそこに固定しへばりついているらしかった。磁石とコンパスでこれらの雲のおおよその方角と高度を測って、そして雲の高さを仮定して算出したその位置を地図の上に当たってみると、西は甲武信岳《こぶしだけ》から富士《ふじ》箱根《はこね》や伊豆《いず》の連山の上にかかった雲を一つ一つ指摘する事ができた。箱根の峠を越した後再び丹沢山《たんざわやま》大山《おおやま》の影響で吹き上がる風はねずみ色の厚みのある雲をかもしてそれが旗のように斜めになびいていた。南のほうには相模《さがみ》半島から房総《ぼうそう》半島の山々の影響もそれと認められるように思った。
高層の風が空中に描き出した関東の地形図を裏から見上げるのは不思議な見物《みもの》であった。その雲の国に徂徠《そらい》する天人の生活を夢想しながら、なおはるかな南の地平線をながめた時に私の目は予想しなかったある物にぶつかった。
それははるかなはるかな太平洋の上におおっている積雲の堤であった。典型的なもくもくと盛り上がったまるい頭を並べてすきまもなく並び立っていた。都会の上に広がる濁った空気を透して見るのでそれが妙な赤茶けたあたたかい色をしていた。それはもうどうしても冬の雲ではなくて、春から夏の空を飾るべきものであった。
庭の日かげはまだ霜柱に閉じられて、隣の栗《くり》の木のこずえには灰色の寒い風が揺れているのに南の沖のかなたからはもう桃色の春の雲がこっそり頭を出しての
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