い事になる。

       三

 春が来ると自然の生物界が急ににぎやかになる。いろいろの花が咲いたりいろいろの虫の卵が孵化《ふか》する。気候学者はこういう現象の起こった時日を歳々に記録している。そのような記録は農業その他に参考になる。
 たとえばある庭のある桜の開花する日を調べてみると、もちろん特別な年もあるが大概はある四五日ぐらいの範囲内にあるのが通例である。これはなんでもないようでずいぶん不思議な事である。開花当時の気温を調べてみても必ずしも一定していない。無論その間ぎわの数日の気温の高低はかなりの影響をもつには相違ないが、それにしてもこの現象を決定する因子はその瞬間の気象要素のみではなくて、遠くさかのぼれば長い冬の間から初春へかけて、一見活動の中止しているように見える植物の内部に行なわれていた変化の積算したものが発現するものと考えられる。
 そこへ行くと人間などはだらしのないものである。仕事が忙しかったり、つい病気したりしていると、いつのまにか柳が芽を吹いたり、桜のつぼみのふくらむのを知らないでいて、急に気がついて驚く事がある。
 うっかりしている間に学年試験が目の前に来ていたり、借金の返済期限がさし迫っていたりする。
 眠っているような植物の細胞の内部に、ひそかにしかし確実に進行している春の準備を考えるとなんだか恐ろしいような気もする。

       四

 植物が生物である事はだれでも知っている。しかしそれが「いきもの」である事は通例だれでも忘れている。
 ある日私は活動写真で、菊の生長の状況を見せられた事がある。まず映画に現われたのは一つの小さな植木鉢《うえきばち》であった。そのまん中の土が妙に動くと思っていると、すうと二葉が出て来た。それが見るまに大きくなり、その中心から新しい芽が泉のわくようにわき上がり延び上がった。延びるにしたがって茎の周囲に簇生《ぞくせい》した葉は上下左右に奇妙な運動をしている。それはあたかも自意識のある動物が、われわれには不可知なある感情を表わすためにもがいているようにも思われ、あるいはまた充実した生命の歓喜におどっているようにも思われた。やがて茎の頂上にむくむくと一つの団塊が盛り上がったと思うとまたたくまにその頭がばらばらに破れて数十の花弁が花火のように放散した。そして絶大な努力を仕遂げてあえいででもいるように波打っていた。そこで惜しいところで映画はふっと消滅してしまった。
 私はなんだか恐ろしいものを見たような気がした。つまらない草花がみんな「いきもの」だという事をこれほど明白に見せつけられたのは初めてであった。
 日常見慣れた現象をただ時間の尺度を変えて見せられただけの事である。時の長短という事はもちろん相対的な意味しかない。蜉蝣《かげろう》の生涯《しょうがい》も永劫《えいごう》であり国民の歴史も刹那《せつな》の現象であるとすれば、どうして私はこの活動映画からこんなに強い衝動を感じたのだろう。
 われわれがもっている生理的の「時」の尺度は、その実は物の変化の「速度」の尺度である。万象が停止すれば時の経過は無意味である。「時」が問題になるところにはそこに変化が問題になる四元世界の一つの軸としてのみ時間は存在する。
 ところがこの生理的の速度計はきわめて感じの悪いものである。ある度以下の速度で行なわれる変化は変化として認める事ができない。これはまた吾人《ごじん》が個々の印象を把持《はじ》する記憶の能力の薄弱なためとも言われよう。
 忘却という事がなかったら記憶という事は成り立たないと心理学者は言う。忘却というものがなかったら生きていられないと詩人は叫ぶ。
 もし記憶の衰退率がどうにかなって、時の尺度が狂ったために植物の生長や運動が私の見た活動写真のように見えだしたらどうであろう。春先の植物界はどんなに恐ろしく物狂わしいものであろう。考えただけでも気が違いそうである。「青い鳥」の森の場面ぐらいの事ではあるまい。

       五

 近年急に年を取ったせいか毎年春の来るのが待ち遠しくなった。何よりも気温の高くなるのが、ありがたいのである。しかしいったいには年じゅうの時候のうちでは春はあまり自分の性に合わないほうである。なぜかと言えば第一胃が悪くなる、頭が重くなる。こういう点で同様な人はずいぶん多いらしい。それよりもいちばんいやな事は春が来るとこの自分が「悪人」になるからである。
 冬の間はからだじゅうの乏しい血液がからだの内部のほうへ集合しているような気がする。それで手足の指などは自分のからだの一部とは思われないように冷え凍えてこちこちしている代わりに頭の中などはいいかげんにあたたかいものがよい程度に充実しているような気がしている。ところが桜が咲く時分になるとこの血液がからだの外郭
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