的素養のない人でも、この理論の根底に横たわる認識論上の立場の優越を認める事はそう困難とは思われない。かえってむしろ悪く頭のかたまったわれわれ専門学者のほうが始末が悪いかもしれない。この場合でも心の貧しき者は幸いである。
 一般化された相対論はとにかくとして、等速運動に関するいわゆる特別論などはあまりにわかりきった事であるためにわかりにくいと言われうるかもしれない。それはガリレー以来、力学が始まってこのかただれも考えつかなかったほどわかりきった事であったのである。ここでアインシュタインが出て来てコロンバスの卵の殻《から》をつぶしてデスクの上に立てた。
 だれにでもわかるものでなければそれは科学ではないだろう。

       二

 暦の上の春と、気候の春とはある意味では没交渉である。編暦をつかさどる人々は、たとえば東京における三月の平均温度が摂氏何度であるかを知らなくても職務上少しもさしつかえはない。北半球の春は南半球の秋である事だけを考えてもそれはわかるだろう。
 春という言葉が正当な意味をもつのは、地球上でも温帯の一部に限られている。これもだれも知ってはいるが、リアライズしていないのは事実である。
 しかしたとえば東京なら東京という定まった土地では、一年じゅうの気候の変化にはおのずからきまった平均の径路がある。それが週期的ないし非週期的の異同の波によって歳々の不同を示す。
 この平均温度というものが往々誤解されるものである。どうかするとその月にその温度の日が最も多いという意見に思いちがえられるのである。しかし実際は月の内でその月の平均温度を示していた時間はきわめてまれである。
 それと事がらは別だが、いわゆる輿論《よろん》とか衆議の結果というようなものが実際に多数の意見を代表するかどうか疑わしい場合がはなはだ多いように思う。それから、また志士や学者が言っているような「民衆」というような人間は捜してみると存外容易に見つからない。飢えに泣いているはずの細民がどうかすると初鰹魚《はつがつお》を食って太平楽を並べていたり、縁日で盆栽をひやかしている。
 これも別の事であるが流行あるいは最新流行という衣装や粧飾品はむしろきわめて少数の人しか着けていない事を意味する。これも考えてみると妙な事である。新しい思想や学説でも、それが多少広く世間に行き渡るころにはもう「流行」はしな
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