春六題
寺田寅彦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訛伝《かでん》されている

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十年四月、新文学)
−−

       一

 暦の上の季節はいつでも天文学者の計画したとおりに進行して行く。これは地球から見た時に太陽が天球のどこに来ているかという事を意味するだけの事であるから、太陽系に何か大きな質量の変化が起こるか、重力の方則が変わらない限り、予定のとおり進行してゆくはずである。
 近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根底から打ちこわされた、というような話が世界じゅうで持てはやされている。これがこういう場合にお定まりであるようにいろいろに誤解され訛伝《かでん》されている。今にも太陽系の平衡が破れでもするように、またりんごが地面から天上に向かって落下する事にでもなるように考える人もありそうである。そしてそれが近代人の伝統破壊を喜ぶ一種の心理に適合するために、見当違いに痛快がられているようである。しかし相対原理が一般化されて重力に関する学者の考えが一変しても、りんごはやはり下へ落ち、彼岸《ひがん》の中日《ちゅうにち》には太陽が春分点に来る。これだけは確実である。力やエネルギーの概念がどうなったところで、建築や土木工事の設計書に変更を要するような心配はない。
 アインシュタインおよびミンコフスキーの理論のすぐれた点と貴重なゆえんはそんな安直な事ではないらしい。時と空間に関する吾人《ごじん》の狭いとらわれたごまかしの考えを改造し、過去未来を通ずる大千世界の万象を四元の座標軸の内に整然と排列し刻み込んだ事でなければならない。夢幻的な間に合わせの仮象を放逐して永遠な実在の中核を把握《はあく》したと思われる事でなければならない。複雑な因果の網目を枠《わく》に張って掌上に指摘しうるものとした事でなければならない。
 この新しい理論を完全に理解する事はそう容易な事ではないだろう。アインシュタインが自分の今度書くものを理解する人は世界じゅうに一ダースとはあるまいと言ったそうである。この言葉がまた例によって見当違いに誤解されて、坊間に持てはやされている。そして彼の理論の上に輝く何かしら神秘的の光環のようなものを想像している人もあるらしい。
 特別な数学
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング