ハルメソンとその子が王の柩《ひつぎ》を船底に隠し、石ころをつめたにせの柩を上に飾って、フィヨルドの波をこぎ下る光景がありあり目に浮かんだ、そうしてこの音楽の律動が櫂《かい》の拍子を取って行くように思われた。
その後にも長女は時々同じ曲の練習をしていた。右手のほうでひいているメロディだけを聞くとそれは前から耳慣れた「春の歌」であるが、どうかして左手ばかりの練習をしているのを幾間《いくま》か隔てた床《とこ》の中で聞いていると、不思議に前の書中の幻影が頭の中によみがえって来て船戦《ふないくさ》の光景や、セント・オラーフの奇蹟《きせき》が幾度となく現われては消え、消えては現われた。そして音の高低や弛張《しちょう》につれて私の情緒も波のように動いて行った。異国の遠い昔に対するあくがれの心持ちや、英雄の運命の末をはかなむような心持ちや、そう言ったようなものが、なんとなく春の怨《うらみ》を訴えるような「無語歌」と一つにとけ合って流れ漂って行くのであった。
そして今でもこの曲を聞くと、蒲団《ふとん》の外に出して書物をささえた私の指先に、しみじみしみ込むようであった春寒をも思い出すのである。
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