てくれ」と言った。ビオルンは斧《おの》をふるってその背を鎚《つち》にして敵の肩を打つとフンドはよろめいて倒れんとした。トールスタイン・クナーレスメドは斧で王を撃って左のひざの上を切り込んだ。……王がよろめき倒れてかたわらの石によりかかり、神の助けを祈っているところへ敵将が来て首と腹を傷つけた。
戦いが終わってトーレ・フンドは王の死骸《しがい》を地上に延ばして上着を掛けた。そして顔の血潮をぬぐって見ると頬《ほお》は紅を帯びて世にも美しい顔ばせに見えた。王の血がフンドの指の間を伝い上って彼の傷へ届いたと思うと、傷は見るまに癒合《ゆごう》して包帯しなくてもよいくらいになった。……王の遺骸はそれから後もさまざまの奇蹟《きせき》を現わすのであった。
私がこのセント・オラーフの最期の顛末《てんまつ》を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布《し》いて行く地盤の上に、遠い昔の北国の曠《ひろ》い野の戦いが進行して行った。同じようにはかないうら悲しい心持ちに、今度は何かしら神秘的な気分が加わっているのであった。
忠義なハルメソンとその子が王の柩《ひつぎ》を船底に隠し、石ころをつめたにせの柩を上に飾って、フィヨルドの波をこぎ下る光景がありあり目に浮かんだ、そうしてこの音楽の律動が櫂《かい》の拍子を取って行くように思われた。
その後にも長女は時々同じ曲の練習をしていた。右手のほうでひいているメロディだけを聞くとそれは前から耳慣れた「春の歌」であるが、どうかして左手ばかりの練習をしているのを幾間《いくま》か隔てた床《とこ》の中で聞いていると、不思議に前の書中の幻影が頭の中によみがえって来て船戦《ふないくさ》の光景や、セント・オラーフの奇蹟《きせき》が幾度となく現われては消え、消えては現われた。そして音の高低や弛張《しちょう》につれて私の情緒も波のように動いて行った。異国の遠い昔に対するあくがれの心持ちや、英雄の運命の末をはかなむような心持ちや、そう言ったようなものが、なんとなく春の怨《うらみ》を訴えるような「無語歌」と一つにとけ合って流れ漂って行くのであった。
そして今でもこの曲を聞くと、蒲団《ふとん》の外に出して書物をささえた私の指先に、しみじみしみ込むようであった春寒をも思い出すのである。
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