の射手エーナール・タンバルスケルヴェはエリック伯をねらって矢を送ると、伯の頭上をかすめて舵柄《だへい》にぐざと立つ。伯はかたわらのフィンを呼んで「あの帆柱のそばの背の高いやつを射よ」と命ずる。フィンの射た矢は、まさに放たんとするエーナールの弓のただ中にあたって弓は両断する。オラーフが「すさまじい音をして折れ落ちたのは何か」と聞くと、エーナールが「王様、あなたの手からノルウェーが」と答えた。王が代わりに自分の弓を与えたのを引き絞ってみて「弱い弱い、大王の弓にはあまり弱い」と言って弓を投げ捨て、剣と盾《たて》とを取って勇ましく戦った。――私は那須与一《なすのよいち》や義経《よしつね》の弓の話を思い出したりした。
私がこの物語を読んでいた時に、離れた座敷で長女がピアノの練習をやっているのが聞こえていた。そのころ習い始めたメンデルスゾーンの「春の歌」の、左手でひく低音のほうを繰り返し繰り返しさらっていた。八分の一の低音の次に八分の一の休止があってその次に急速に駆け上がる飾音のついた八分の一が来る。そこでペダルが終わって八分の一の休止のあとにまた同じような律動が繰り返される。
この美しい音楽の波は、私が読んでいる千年前の船戦《ふないくさ》の幻像の背景のようになって絶え間なくつづいて行った。音が上がって行く時に私の感情は緊張して戦の波も高まって行った。音楽の波が下がって行く時に戦もゆるむように思われた。投《な》げ槍《やり》や斧《おの》をふるう勇士が、皆音楽に拍子を合わせているように思われた。そして勇ましいこの戦《いくさ》の幻は一種の名状し難い、はかない、うら悲しい心持ちのかすみの奥に動いているのであった。
今はこれまでというので、王と将軍のコールビオルンは舷《ふなばた》から海におどり入る。エリックの兵は急いで捕えようとしたが、王は用心深く盾《たて》を頭にかざして落ち入ったので捕える事ができなかった。盾《たて》を背にしていた将軍は盾の上に落ちかかり、沈む事ができなかったために虜《とりこ》となった。
王はこの場で死んだと思われた。しかし泳ぎの達人であった王は、盾の下で鎖帷子《くさりかたびら》を脱ぎ捨てここを逃げのびてヴェンドランドの小船に助けられたといううわさも伝えられた。ともかくも王の姿が再びノルウェーに現われなかったのは事実である。
すぐれた英雄の戦没した後に、こうい
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