っとつぐみや鶸鳥《ひわ》が引掛かるが、自分のにはちっともかからなかった。鰻釣《うなぎつ》りや小海老《こえび》釣りでも同様であった。亀さんは鳥や魚の世界の秘密をすっかり心得ているように見えた。学校ではわりに成績のよかった自分が、学校ではいつもびりに近かった亀さんを尊敬しない訳には行かなかった。学校で習うことは、誰でも習いさえすれば覺えることであり、一とわたりは言葉で云い現わすことの出来るような理窟の筋道の通ったことばかりであったが、亀さんの鳥や魚の世界に関する知識は全く直観的なものであって、とうてい教わることの出来ない種類のものであった。亀さんは眼をつむっていてもその心の眼には森の奥における鳥の行動や水底の魚の往来が手に取るように見えすくかと思われるのであった。そういう種類の、学校では教わることの出来ない知識が存在するということ、そういう知識が貴重なものだということを、この亀さんに教わったのである。
母や祖母は自分が亀さんと遊ぶことをあまり喜ばなかったらしい。亀さんは実際「行儀の悪い」子供であったろうし、また随分いたずらものでもあったらしい。草原の草を縛り合わせて通りかかった人を躓《つまず》かせたり、田圃道に小さな陥穽《おとしあな》を作って人を蹈込《ふみこ》ませたり、夏の闇の夜に路上の牛糞《ぎゅうふん》の上に蛍を載せておいたり、道端に芋の葉をかぶせた燈火《あかり》を置いて臆病者を怖がらせたりと云ったような芸術にも長じていた。月夜に往来へ財布を落しておいて小蔭にかくれて見ている、通行人があたりを見廻わしてそれを拾おうとするときに、そっと手許の糸を手繰《たぐ》ると財布がひとりでするすると動き出すというような深刻な教育法をも実行した事があったようである。こういう巧智はしかしことごとくが亀さんの独創によるものではなくて、大部分は重兵衛さんの晩酌時の講話の時に授かったものであった。重兵衛さんの寺子屋時代の悪戯《いたずら》にはずいぶん過劇なものもあったようである。
こういう、学校では教わらない悪戯教育も、今から考えてみると自分には色々な意味で有益であり貴重なものであったように思われる。人生行路に横たわる幾多の陥穽に対する警戒の芽生えを植付けてくれたような気がする。他人の軽微な苦痛を己《おの》が享楽の小杯に盛ろうとする不思議な心理がいかなる善良な人々の心の奧にも潜在することを教えてくれたようである。それから、冒険というものに対する本能的な興味の最初の小さな焔に点火してくれたとも考えられる。
この頃活動写真で色々な空中戦の壮烈な光景を見せられる。空の勇士、選《え》りぬきのエースが手馴れの爆撃機を駆って敵地に向かうときの心持には、どこかしら、亀さんが八《や》かましやの隠居《いんきょ》の秘蔵の柿を掠奪に出かけたときの心持の中のある部分に似たものがありはしないか。こんな他愛のないことを考えることもある。それはとにかく、亀さんが鳥人になったらおそらく人並以上の離《はな》れ業《わざ》を演じ得る名操縦士になったことであろう。
亀さんの妹の丑尾さんとはあまり一緒に遊ぶことがなかったようである。その頃は男の子と女の子が遊んでいると、他の遊び仲間から「おとことおなごとおにやんべ、やんがておややができやんしょ」と云って囃《はや》し立てられるのであった。しかしただ一度ある小春日のわが家の門前で起った些細な出来事だけがはっきり印象に残っている。多分七、八歳くらいの自分と五、六歳くらいの丑尾さんとが門前のたたきの斜面で日向《ひなた》ぼっこをしていた。自分が門柱にもたれてぼんやり前の小川を眺めていたとき丑尾さんが自分の正面に立ってしばらく自分の顔を見詰めていたようであったが、真に突然に、その可愛い両腕を左右にぱっと拡げたと思うといきなり飛びつくようにして、しっかりと自分を抱擁した、そのとき自分がそのままにじっとしていたのか、それとも急いで押しのけたか、それはちっとも記憶していない。ただ覚えているのは、丑尾さんが着古した袖無《そでなし》のちゃんちゃんを着て、頭を小《ちっ》ちゃなおちごに結《ゆ》っていたことと、それから、その日の小春の日影が実にうららかに暖かくのどかであったということだけである。この丑尾さんは、たしか自分の家がその後一時東京に移っていたその二年の間に病死してしまったので、十歳にも満たない本当に果敢《はか》ない存在ではあった。しかし自分の幼年時代の追憶の夢の舞台に登場する唯一の異性のヒロインはこのやや不器量で可哀そうな丑尾さんであったのである。
重兵衛さんの長男楠次郎さんから自分は英語の手ほどきを教わった。これについては前に書いたことがあるから略する。楠さんは独学で法律を勉強して、後に裁判所の書記に採用された。弟妹とちがって風采もよくてハイカラでまたそ
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