で糸車を廻わしている白髪の祖母の袖無羽織の姿が浮び、そうして井戸端から高らかに響いて来る身に沁むような蟋蟀《こおろぎ》の声を聞く想いがするのである。寝床で母からよく聞かされた阿波《あわ》の鳴門《なると》の十郎兵衛の娘の哀話も忘れ難いものの一つであった。
重兵衛さんのお伽噺のレペルトワルはそう沢山にはなかったようである。北山の法経堂《ほうきょうどう》に現れる怪火《けちび》の話とか、荒倉山《あらくらやま》の狸が三つ目入道に化けたのを武士が退治した話とか、「しばてん」(木の葉天狗)と相撲を取る話。「えんこう」(河童《かっぱ》)を釣る話とかいう種類のものが多かった。一例として「えんこう」の話をとると、夕涼みに江《え》ノ口川《くちがわ》の橋の欄干に腰をかけているとこの怪物が水中から手を延ばして肛門を抜きに来る。そこで腰に鉄鍋を当てて待構えていて、腰に触る怪物の手首をつかまえてぎゅうぎゅう捻《ね》じ上げたが、いくら捻じっても捻じっても際限なく捻じられるのであった。その時刻にそこから十町も下流の河口を船で通りかかった人が、何かしら水面でぼちゃぼちゃ音がしていると思ってよく見ると、一匹の「えんこう」が、しきりにぐるぐる廻転運動をしているのであった。つまり「えんこう」の手は自由自在に伸長されるもので、こんなにまで長くなり得るものだという事が、この「事実」で証明されるというのであった。
いろんな奇抜な方法で雀や鴉《からす》を捕る話も面白かった。一例を挙げると、庭へ一面に柿の葉を並べておいて、その上に焼酎《しょうちゅう》に浸した米粒をのせておく。雀が来てそれを食うと間もなく酔を発して好い気持になり、やがてその柿の葉を有合わせの蒲団にしてぐっすり寝込んでしまう。秋の日がかんかん照りつけるので柿の葉が乾燥してじりじりと巻き上がるのでいつの間にかそっくりと雀を包んで動けないように縛ってしまう。その頃を見計らって箒《ほうき》で掃き集めると米俵に一俵くらいは容易に捕れるというのである。また、鴉を捕る法としてはこんなのがある。牛の脊中へ赤い紙片を貼付け、尻尾《しっぽ》に摺粉木《すりこぎ》を一本縛り付けて野良《のら》へ出しておく。鴉が下りて来て牛の脊中の赤い紙を牛肉と思ってつつくと、牛は蠅でも追う気でぴしゃりと尻尾ではたく、すると摺粉木の一撃で鴉が脆《もろ》くも撲殺されるというのである。
これらの話は、柳家小《やなぎやこ》さんの落語のごとく、クライスラーのクロイツェルソナタのごとく実に何度となく同じ聴衆の前に繰返されて、そうしてその度ごとに新しくその聴衆を喜ばしたものである。繰返せば繰返すにつれてますますその面白味の深さを加えたものである。この点では論語や聖書も同じことであるのみならず、こういう郷土的色彩の濃厚な怪談やおどけ話の奧の方にはわれらとは切っても切れない祖先の生活や思想で彩られた背景がはっきりと眺められるのであるから、こういう話を繰返し聞かされている間にわれわれの五体の幾億万の細胞の中に潜んでいる祖先の魂が一つ一つ次第次第に呼び覚されて来るのであった。中学時代になってからやっとイソップやグリムやアンデルセンにめぐり合って日本の外に他の世界があること、そこにはわれらとはよほどちがった生活と思想のあることを教えられたのであった。今の子供はコスモポリタンなお伽噺の洪水の波に押流されているようなものである。もしも今の少青年に民族的な精神が欠乏しているとすればその原因の一つとしては西洋お伽噺の食傷も数えられなければならないかもしれない。
重兵衛さんは性的な問題を取扱った話はほとんどしなかったようである。姉の家で普請をしていた時に、田舎から呼寄せられて離屋《はなれ》に宿泊していた大工の杢《もく》さんからも色々の話を聞かされたがこれにはずいぶん露骨な性的描写が入交《いりま》じっていたが、重兵衛さんの場合には、聴衆の大部分が自分の子供であったためにそういう材料はことさらに用心して避けたものと思われる。
とにかく重兵衛さんの晩酌の肴《さかな》に聞かしてくれた色々の怪談や笑話の中には、学校教育の中には全く含まれていない要素を含んでいた。そうしてこの要素を自分の柔らかい頭に植えつけてくれた重兵衛さんに、やはり相当の感謝を捧げなければならないように思う。重兵衛さんは自分の心にファンタジーの翼を授け、自分の現実世界の可能性の牢獄を爆破してくれた人であった。
重兵衛さんの次男で自分よりは一つ二つ年上の亀さんからも実に色々のことを教わった。彼はたしかに一種の天才であったらしい。何をさせても器用であって、彼の作った紙鳶《たこ》は風の弱い時でも実によく揚りそうして強風にも安定であった。一緒に公園の茂みの中にわな[#「わな」に傍点]をかけに行っても彼のかけた係蹄《わな》にはき
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