だ、楠さんの細君が亡くなり、次にひどく酒飲みになった楠さんも若死をしたこと、亀さんが医師の家に書生をしていて、後に東京へ出て来てどこかの医者の代診をしているという噂を聞いたように思うだけである。
幼時を追想する時には必ず想い出す重兵衛さんの一族の人々が、自分の内部生活に及ぼした影響と云ったようなことは、近頃までついぞ一度も考えてみたことはなかったのである。この頃になって、自分に親しかった、そうして自分の生涯に決定的な影響を及ぼしたと考えらるるような旧師や旧友がだんだんに亡くなって行く、その追憶の余勢は自然に昔へ昔へと遡って幼時の環境の中から馴染《なじみ》の顔を物色するようになる。そういう想い出の国の人々は、別にえらい人でもなんでもなかったであろうが、そういう人々から全く無意識の間に受けた教育の効果は、よかれ悪しかれ実に予想外に重大なものであるということが、やっとこの頃になって少しばかり分りかけて来たような気がするのである。
このなんらの山もない重兵衛さん一家の平凡な追憶記は、子供をもった現代の世間の親達にも、もしや何かの参考になるかもしれないと思うのである。[#地から1字上げ](昭和八年一月『婦人公論』)
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(『蒸発皿』への追記)この記事が縁となって、重兵衛さんの次男の亀さんからの消息に接することが出来た。今日では立派な医師となって大連《だいれん》の方に住んでいるのである。家族一同の写真を送ってくれたが、四十年前の亀さんの面影が今日でもそっくりそのままに残っているのであった。
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底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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