うの仕事であるかのように思われた。
 このしらみ取りの光景がよほど気に入ったものと見える。当時自分のいたずら書きをした手帳が近年まで郷里の家に保存されていたが、その手帳にこの鍛冶橋外《かじばしそと》の乞食《こじき》がしらみを取っている絵がいくつとなくかいてあった。この稚拙なグロテスクのスケッチはけだし傑作であったと思う。その当時まだしらみの実物を手にしたことはなかったはずであるが、しかしその絵にはこの虫がだいたい紡錘形をした体躯《たいく》の両側に数本の足の並んだものとして、写実的にはとにかく、少なくも概念的に正しく描かれているのである。
 いよいよ東京を立って横浜《よこはま》までは汽車で行ったが、当時それから西はもう鉄道はなかったので、汽船で神戸《こうべ》まで行くか人力《じんりき》で京都まで行くほかはなかった。われわれの家族は東海道見物かたがた人力のほうを選んで長い陸路の旅をつづけたのであった。第一夜は小田原《おだわら》の「本陣」で泊まったが、その夜の宿の浴場で九歳の子供の自分に驚異の目をみはらせるようなグロテスクな現象に出くわした。それは、全身にいろいろの刺青《いれずみ》を施した数名の壮漢が大きな浴室の中に言葉どおりに異彩を放っていたという生来初めて見た光景に遭遇したのであった。いわゆる倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》ふうのものもあったが、そのほかにまたたとえば天狗《てんぐ》の面やおかめの面やさいころや、それから最も怪奇をきわめたのはシヴァ神の象徴たるリンガのはなはだしく誇張された描写であった。
 げじげじから泥坊《どろぼう》、泥坊からしらみを取って食う鍛冶橋見付の乞食、それから小田原の倶梨伽羅紋々と、自分の幼時の「グロテスク教育」はこういう順序で進捗《しんちょく》して行ったのであった。この教程は今考えてみると偶然とは言いながら実によくできていたと思う。この教程の内容を今ここで分析するとすれば、おそらく数十枚の原稿紙を要するであろう。
 それはとにかく、子供の時代に受けたいろいろの有益な「美的教育」のかたわらにこうした「グロテスク教育」もあったということは、つい近ごろまで意識しないでいたことである。それを意識した今日から翻ってよくよく考えてみると、こういう一見はなはだいかがわしいグロテスク教育も、美的教育と相並んで、少なくも自分の場合においてはかなり大切なものであったように思われて来るのである。
 子供を育てる親たちの参考になれば幸いである。

     四 宇宙線

 理化学が進めば世の中に不思議はなくなるであろうと言う人がある。しかし科学が進めばかえって今まで知られなかった新しい不思議なものも出て来るのである。現在物理学者の問題となっている宇宙線などもその一例である。
 宇宙のどこの果てからとも知れず、肉眼にも顕微鏡にも見えない微粒子のようなものが飛んで来て、それが地球上のあらゆるものを射撃し貫通しているのに、われわれ愚かなる人間は近ごろまでそういうものの存在を夢にも知らないでいたのである。その存在を認める唯一の手段としては、この放射線のために空気その他のガスの分子が衝撃されて電離し、そのためにそのガスの電導度にわずかながら影響し、従って特別な装置の鋭敏な電気計に感ずるという、そういう一種特別の作用を利用するほかはない。もっとも地上に存する放射性物質から発射されるいろいろの放射線もやはりこれと同様な性質をもっているのではあるが、それらのものが物質を貫通する能力に比べて比較にならぬくらい強大な貫通能力を宇宙線が享有しているために、地上の諸放射線とはおのずから区別されるのである。すなわち、数尺の鉛板あるいは百尺の水層を貫徹して後にも、なお機械に感じるのであるから、ビルディングの中の金庫の中にだいじにしまってある品物でもこの天外から飛来する弾丸の射撃を免れることはできないわけである。従ってわれわれのだいじな五体も不断にこの弾丸のために縦横無尽に射通されつつあるのは事実で、しかも一平方センチメートルごとに大約毎分一個ぐらいの割合であるから、たとえば頭蓋骨《ずがいこつ》だけでも毎分二三百発、一昼夜にすれば数十万発の微小な弾丸で射通されている。それだのに、おかしいことには、われわれはそんなことは全く夢にも知らずに平気ですましていられるのである。針一本でも突き刺されば助からぬ脳髄を、これだけの弾丸が貫通して平気でいられるのは、その弾丸が微小であるためというよりはむしろあまりに貫通力が絶大であるためであるとも考えられる。
 それはとにかく、こういう弾丸が脳を貫通していて、それが絶対になんらの影響をも人間に与えないかという疑問に対しては現代の科学では遺憾ながら確定的な返答ができない。従ってそれがなんらの影響もないと断言する根拠ももちろんな
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング