障子の落書
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妹と姪《めい》とが
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明り取りの窓|硝子《ガラス》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《あかさび》が
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平一は今朝妹と姪《めい》とが国へ帰るのを新橋まで見送って後、なんだか重荷を下ろしたような心持になって上野行の電車に乗っているのである。腰掛の一番後ろの片隅に寄りかかって入口の脇のガラス窓に肱をもたせ、外套の襟の中に埋るようになって茫然と往来を眺めながら、考えるともなくこの間中の出来事を思い出している。
無病息災を売物のようにしていた妹婿の吉田が思いがけない重患に罹って病院にはいる。妹はかよわい身一つで病人の看護もせねばならず世話のやける姪をかかえて家内の用もせねばならず、見兼ねるような窮境を郷里に報じてやっても近親の者等は案外冷淡で、手紙ではいろいろ体《てい》の好い事を云って来ても誰一人上京して世話をするものはない。もとより郷里の事情も知らぬではないがあまりに薄情だと思って一時はひどく憤慨し人非人のように罵ってもみた。時にはこれも畢竟《ひっきょう》妹夫婦があんまり意気地がないから親類までが馬鹿にするのだと独りで怒ってみて、どうでもなるがいいなどと棄鉢《すてばち》な事を考える事もあったがさて病人の頼み少ない有様を見聞き、妹がうら若い胸に大きな心配を抱いて途方にくれながらも一生懸命に立働いているのを見ると、非常に可哀相になって、役所の行き帰りには立ち寄って何かと世話もし慰めてもやる。妻と下女とをかわるがわる手伝いにやっていたが、立入って世話しているとまた癪にさわる事が出来て、罪もない妹に当りちらす。しかし宅《うち》へ帰って考えるとそれが非常に気の毒になって矢も楯もたまらなくなる。こんな工合で不愉快な日を送っているうちに病人は次第に悪くなってとうとう亡くなってしまった。病院から引取って形ばかりでも葬式をすませ、妹と姪とを自宅に引取るまでの苦労を今更のように思い浮べてみる。
殺風景な病室の粗末な寝台の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、秋雨のふる日に焼場へ行った時の
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