野も奥へ廻ると人通りは少ない。森の梢に群れていた鴉《からす》の一羽立ち二羽立つ羽音が淋しい音を空に引く。今更らしく死んだ人を悲しむのでもなく妹の不幸を女々《めめ》しく悔やむのでもないが、朝に晩に絶間のない煩いに追われて固く乾いた胸の中が今日の小春の日影に解けて流れるように、何という意味のない悲哀の影がゆるんだ平一の心の奥底に動くのであった。
宅へ帰ってみると妻は用達《ようた》しに出たらしい。下女はちょっと出迎えたがすぐ勝手へ引込んで音もない。今朝まであんなに騒々しかった家内はしんとしてあまりに静かである。平一は縁側に立ったまま外套も脱がず、庭の杉垣に眩《まばゆ》い日光を見ていたが、突然訳の分らぬ淋しさに襲われて座敷へはいった。机の前に坐って傍の障子を見ると、姪がいつの間にか落書したのであろう、筆太に塗りつけた覚束ない人形の絵が、おどけた顔の横から両手を拡げている。何という罪のない絵だろうとしばらく眺めていたが、名状の出来ぬ暗愁が胸にこみあげて来て、外套のかくしに入れたままの拳を握りしめて強く下唇をかんだ。
程近い踏切を過ぎる汽車の響がしてまたもとの静かさにかえる。妹等はもう何処らまで行ったかと思って手近い旅行案内を取り上げてみた。[#地から1字上げ](明治四十一年一月『ホトトギス』)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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