合に一分子だけの厚さをもつものであるから、割れ目の間隙《かんげき》が 10−8[#「−8」は上付き小文字]cm 程度である場合にこの種の皮膜ができればそれによって間隙は充填《じゅうてん》され、その皮膜はもはや流体としてではなく固体のごとき作用をして、音波が割れ目の面で反射され分散されるのを防止し、鐘の振動を完全にすることができるであろうと想像されうる。しかし黄銅の場合にこの種の単分子皮膜が固体面に沿うて自由に伸展し、吸着した湿気やガスを駆逐しつつ裂罅《れっか》を埋めるかどうかは実験しなければ確かなことはわからない。しかし他の多くのよく知られた実験の結果から推定してたぶん間違いないであろうと思われる。
割れ目があまり大きくては困るが、しかし必ずしも 10−8[#「−8」は上付き小文字] や 10−7[#「−7」は上付き小文字] でなくてもミクロン程度のものならば、その間隙を液体で充填することによって割れ目の面における音波の反射をかなりまで防止し従って鐘の正常な定常振動を回復することができるであろうと考えられる。もっとも割れ目の空隙《くうげき》が厚くなるほど、これを充填した血液の水分は蒸発し、有機物は次第に分解変化して効力を失うであろうから、やはり目に見えない程度の分子的な割れ目に対して最も効力を発揮するであろうと考えられる。
以上のスペキュレーションが多少でも事実に該当するとした時に血液成分中に含まれるいかなる成分が最も有効であるかという問題が起こるが、多くの場合から類推すると、おそらく膠《にかわ》のようなものや脂酸のようなもので COOH 根を有するものが最も有効であろうと考えられる。
Lubrication に関して油の oiliness と称するものがこの場合の問題に密接な関係をもつであろうと思われる。この減摩油の効力を規定する因子としての oiliness は、ある学者の説では炭水素連鎖の屈撓性《くっとうせい》、あるいは連鎖が界面に横臥《おうが》しうる性質と関連しているとのことであるが、現在の場合でも連鎖が屈伸自在であればあるほど、金属の molecular な空隙《くうげき》に潜入してこれを充填《じゅうてん》するのに好都合であろうと想像することができる。
以上は単なるスペキュレーションに過ぎないが近来ますます盛んになった分子物理学上の諸問題と連関して
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