する事ができなかった。
もう一つの場合は、人から何か自分に不利益な誤解を受けて、それに対する弁明をしなければならない時に、その弁明が無効である事がだんだんにわかって来るとする、そういう困難な場合に不意に例の笑いが呼び出される。これは最もぐあいの悪い場合であるが、それを意志の力で食い止める事は、とても他人に想像されまいと思われるほど私には困難である。
この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、本膳《ほんぜん》をふるまわれて食っている間にふき出したような話をする人も二人や三人はあった。
ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。
戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。
これらはむしろ狂に近い例かもしれないがしかしともかくもこんないろいろの事実を総合して考えると、一般に「笑い」という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。
笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的《けいれんてき》に収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い止めようとする作用が交錯して起こるようである。ところがある心理学者の説を敷衍《ふえん》して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。
私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。
笑う前にその理由を考えてから笑うという事は不可能であるとしても、笑ってしまったあとで少なくもその行為の解明がつかないのは申し訳のない事であると思っていた。その困難な説明がどうやらできそうな心持ちがしだした。
それにはこの学者の説と、昔よそのおばさんが言った「どこかおなか[#「おなか」に傍点]に弱い所があるせいでしょう」という事とを合わせて考えてみるといいようである。
以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張|弛緩《しかん》の交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。こう思って自分の場合に当たってみるとある程度まではそれでうまく説明ができるように思われる。医者に診《み》てもらって深呼吸をする時などには最も適切に当てはまるし、その他の場合でもあまりたいした無理なしに適用しそうである。
この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、臆病《おくびょう》さの確かめられる時であるというのはきわまりなく不愉快な恥ずかしい事である。しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それはまたこの上もない心強い喜ばしい事である。
実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑いの出現する事はまれであって、病後あるいは精神過労の後に最も顕著な事から考えてもこの仮説は少なくともよほど見込みがありそうである。
このような考えから出発して一般の笑いの現象を研究してみたらどうかという事は自然に起こる次の問題である。
狂人やヒステリー患者の病的な笑いはどうであろう。これは第一自分の経験もないし、また観察すべき材料も手近にないからよくはわからないが、たとえば女のからだのある変化に随伴して起こりがちなヒステリーなどは、鬱積《うっせき》した活力が充分に発現されないために起こる病的現象だとすると、前の仮説の領域から全く離れたものとは思われない。
しかしそれはしばらくおいて、もう少し正常《ノルマル》な健全な笑いを考えてみる。
そういう笑いの中で最も
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