純粋で原始的だと言われるのは、野蛮人でも文明人でも子供でもおとなでも共通に笑うような笑いでなければならない。野蛮人がいかなる事を笑うかという事が知りたいのであるがこれはちょっと参考すべき材料を持ち合わせない。やむを得ず子供の場合を考えてみた。子供の笑いの中で典型的だと思うのは、第一に何かしら意外な、しかしそれほど恐ろしくはない重大ではない事がらが突発して、それに対する軽い驚愕《きょうがく》が消え去ろうとする時に起こるものである。たとえば人形の首が脱け落ちたり風船玉のようなものが思いがけなく破裂したり、棚《たな》のものが落ちて来たりした時のがその例である。第二にこれと密接に連関しているのは出来事に対する大きな予期が小さな実現によって裏切られた時の笑いである。ビックリ箱をあけてもお化けが破損していて出なかったり、花火ができそこなってプスプスに終わったとかいうのがそれである。この二つは世態人情に関する予備知識なしに可能なものであって、それだけ本能的原始的なものと考えられるが、この二つともにともかくも精神ならびに肉体の一時的[#「一時的」に傍点]あるいは持続的[#「持続的」に傍点]の緊張が急に[#「急に」に傍点]弛緩《しかん》する際に起こるものと言っていい。そうして子細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張《しちょう》の交錯が伴なうように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。
惰性をもったものがその正常の位置から引き退けられて、離たれた時に、これをその正常の位置に引きもどさんとする力が働けば振動の起こるというのは物質界にはきわめて普通な現象である。そして多くの場合においてその惰性は恒同であり、弾力は変位《ディスプレースメント》に正比例するから運動の方程式は簡単である。しかしこの類型を神経の作用にまでも持って行こうとすると非常な困難がある。かりにあるもの[#「もの」に傍点]の変位がプラスであれば緊張、マイナスであれば弛緩の状態を表わすとしたところで、その「もの」がなんだかわからなければその質量に相当するものも、弾力に相当するものもわかりようはない。従ってこれが数学的の取り扱いを許されるまでにはあまりに大きな空隙《くうげき》がある。
それにもかかわらず笑いの現象を生理的また心理的に考える時にこの力学の類型《アナロジー》が非常に力強い暗示をもって私の想像に訴えて来る。そうして生理と心理の間のかけ橋がまさにこの問題につながっていそうに思われてならない。
これを一つの working hypothesis として見た時には、そこからいろいろな蓋然的《がいぜんてき》な結果が演繹《えんえき》される。たとえば笑いやすい人と笑いにくい人などの区別が、力学の場合の「粘性」や「摩擦」に相当する生理的因子の存在を思わせる。粘液質などという言葉が何かの啓示のように耳にひびく。あるいは笑いの断続の「週期」と体質や気質との関係を考えさせられる。またかりに「笑い」が人類に特有な現象だとすれば、他の動物では質量弾力摩擦の配合が週期運動の条件を満足させないために振動が無週期的 aperiodic になるのではないかという疑いも起こる。
子供の笑いと子供にはわからないおとなの笑いとの間には連続的な段階がある。(A)尊厳がそこなわれた時の笑い、(B)人間の弱点があばかれた時の笑いなどは必ずしもこれを悪意な Schadenfreude とばかりは言われない。ここにもある緊張のゆるみが関係してくる。
(C)望みが遂げられた時の喜びの笑い、これも無理なしにここの仮説の圏内にはいる。
少しむつかしくなるのは、(D)得意な時の自慢笑い、(E)軽侮した時の冷笑などである。しかし(D)には(A)と(C)の混合があり、(E)には(B)や(D)の錯雑がある。
(F)苦笑というのがある。これは自分を第三者として見た時の(A)と(B)とが自分を自分とした時の苦痛と混合したものででもあろうか。
こんなふうにしてもっといろいろな種類の笑いがLMN……というぐあいに導き出されそうに思われる。しかしこのような問題はもう純粋な心理の問題になって肉体との縁が遠くなる。これは自分のここに言おうとする事ではなかった。
この「仮説」はただ自分の奇妙な「笑い」に対する少年時代からの疑いを解くために考えたものである。この考えの普遍性を主張しようとしているわけでは決してない。しかしそれが少なくも多数の人に普遍なものを含んでいなければ私はやはり安心ができない。
物事を系統化する事の好きな人はその系統にはいらない事実に盲目になりがちなものである。私の現在の場合にもそんな傾向がないという事は断言できない。それでこれはまだまだ充分に考えてみな
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