日本画にはほとんど興味をなくしてしまった。すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦《がほう》でもコケオドシとしか見えなかった。春挙《しゅんきょ》でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のような気もする。
 近藤浩一路《こんどうこういちろう》の四五点はおもしろいと思って見た。しかし用紙を一ぺんしわくちゃにして延ばしておいてかいたらしいあの技術にどれだけ眩惑《げんわく》された結果であるかまだよくわからない。ともかくもこの人の絵にはいつもあたまが働いているだけは確かである。頭のない空疎な絵ばかりの中ではどうしても目に立つ。
 川端竜子《かわばたりゅうし》の絵もある意味であたまは働いているが、いつも少し見当のちがったほうへ働いていはしないか。人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。
 横山大観《よこやまたいかん》の※[#「瀟−くさかんむり」、第4水準2−79−21]湘八景《しょうし
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