ものが浅間のほうから東南の空に向かってゆるやかに流れて行くのが見えた。最初の爆発にはあんなに多量の水蒸気を噴出したのが、一時間半後にはもうあまり水蒸気を含まない硫煙のようなものを噴出しているという事実が自分にはひどく不思議に思われた。この事実から考えると最初に出るあの多量の水蒸気は主として火口の表層に含まれていた水から生じたもので、爆発の原動力をなしたと思われる深層からのガスは案外水分の少ないものではないかという疑いが起こった。しかしこれはもっとよく研究してみなければほんとうの事はわからない。
降灰をそっとピンセットの先でしゃくい上げて二十倍の双眼顕微鏡でのぞいて見ると、その一粒一粒の心核には多稜形《たりょうけい》の岩片があって、その表面には微細な灰粒がたとえて言えば杉《すぎ》の葉のように、あるいはまた霧氷のような形に付着している。それがちょっとつま楊枝《ようじ》の先でさわってもすぐこぼれ落ちるほど柔らかい海綿状の集塊となって心核の表面に付着し被覆しているのである。ただの灰の塊《かたまり》が降るとばかり思っていた自分にはこの事実が珍しく不思議に思われた。灰の微粒と心核の石粒とでは周囲の気流に対する落下速度が著しくちがうから、この両者は空中でたびたび衝突するであろうが、それが再び反発しないでそのまま膠着《こうちゃく》してこんな形に生長するためには何かそれだけの機巧がなければならない。
その機巧としては物理的また化学的にいろいろな可能性が考えられるのであるが、それもほんとうのことはいろいろ実験的研究を重ねた上でなければわからない将来の問題であろうと思われた。
一度|浅間《あさま》の爆発を実見したいと思っていた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。浅間観測所の水上《みなかみ》理学士に聞いたところでは、この日の爆発は四月|二十日《はつか》の大爆発以来起こった多数の小爆発の中でその強度の等級にしてまず十番目くらいのものだそうである。そのくらいの小爆発であったせいでもあろうが、自分のこの現象に対する感じはむしろ単純な機械的なものであって神秘的とか驚異的とかいった気持ちは割合に少なかった。人間が爆発物で岩山を破壊しているあの仕事の少し大仕掛けのものだというような印象であった。しかし、これは火口から七キロメートルを隔てた安全地帯から見たからのことであって、万一火口の近くにでもいたら直径一メートルもあるようなまっかに焼けた石が落下して来て数分時間内に生命をうしなったことは確実であろう。
十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛《くつかけ》駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間《こあさま》のふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。
八月十七日の午後五時半ごろにまた爆発があった。その時自分は星野温泉《ほしのおんせん》別館の南向きのベランダで顕微鏡をのぞいていたが、爆音も気づかず、また気波も感じなかった。しかし本館のほうにいた水上《みなかみ》理学士は障子にあたって揺れる気波を感知したそうである。また自分たちの家の裏の丘上の別荘にいた人は爆音を聞き、そのあとで岩のくずれ落ちるような物すごい物音がしばらく持続して鳴り響くのを聞いたそうである。あいにく山が雲で隠れていて星野のほうからは噴煙は見えなかったし、降灰も認められなかった。
翌日の東京新聞で見ると、四月|二十日《はつか》以来の最大の爆発で噴煙が六里の高さにのぼったとあるが、これは信じられない。素人《しろうと》のゴシップをそのままに伝えたいつもの新聞のうそであろう。この日の降灰は風向の北がかっていたために御代田《みよた》や小諸《こもろ》方面に降ったそうで、これは全く珍しいことであった。
当時|北軽井沢《きたかるいざわ》で目撃した人々の話では、噴煙がよく見え、岩塊のふき上げられるのもいくつか認められまた煙柱をつづる放電現象も明瞭《めいりょう》に見られたそうである。爆音も相当に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は自分が八月四日に千《せん
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング