ある。
幕があくと舞台は銀座街頭の場面だそうで、とあるバーの前に似顔絵かきと靴磨き二人と夕刊売りの少女が居る。その少女が先刻のバスの少女であるが、ここでは年齢が急に五つか六つ若くなっている。その靴磨きのルンペンの一人がすなわち休憩室の飾り物を貰った子供の御父さんである。バーは紙の建築で人の出入りはないが表を色々の人通りがある。
役者でも舞台の一方から一方へただ黙って通りぬけるだけの役があるらしい。そんな役であってもやはり舞台へ出る前には何遍も鏡を見て緊張し、すうと十秒くらいの間に舞台を通り抜けてしまうとはじめてほっとして「試験」のすんだのどかさを味わうであろう。自分などの専門の○界における役割もざっとこれに似たもののような気がしてそれらの「通行人、大ぜい」諸君の心持を人事《ひとごと》ならず色々と想像してみるのであった。
そこへコケットのダンサーが一人登場して若い方の靴磨きにいきなり甲高《かんだか》なコケトリーを浴びせかける。本当の銀座の鋪道であんな大声であんな媚態を演じるものがあったら狂女としか思われないであろうが、ここは舞台である。こうしないと芝居にならないものらしい。隣席の奥
前へ
次へ
全22ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング